エ/ン/ジ/ン【中島京子】

エ/ン/ジ/ン


書籍名 エ/ン/ジ/ン
著者名 中島京子
出版社 角川書店(256p)
発刊日 2009.02.28
希望小売価格 1,890円
書評日等 -
エ/ン/ジ/ン

「エ/ン/ジ/ン」というタイトルは何やら不気味な感覚が漂う。「エンジン=発動機」「エンジン=猿人」「エンジン=円陣」、どうも全て違っていて「エンジン=厭人(人嫌い)」ということらしい。「団塊の世代にとっては当事者として楽しめますよ」という、とある人の薦めに従っての読書。この小説は主人公(葛見隆一)のところに突然、幼稚園の同窓会の知らせが届くところから始まる。葛見は時間つぶしとばかりに通知の場所に行ってみると、会場として指定されたスナックで待っていたのは、幼稚園の責任者兼たった一人の先生だった倉橋礼子の娘というミライという名の女性。そして、同窓会に出席したのは葛見一人だけだった。

母、倉橋礼子との母子家庭で育ったミライは物心ついたころは家を飛び出していて、最近実家に戻ったものの、母は若年性の痴呆症でボケがはじまっており、もはやその記憶を辿る術もない。ミライは父を探したいとの思いで、たった一枚残っている写真を頼りに、幼稚園の同窓会を開催して当時の園児からどんな情報でも得たいという気持からの企てだった。こうして、現在(2003年)と1973年前後の二つの時間を行き来しながらミライと葛見の二人は「父親」を探し始める。

小説の構造は、小説家であるわたしの「第一人称」で書かれている部分もあれば、「葛見隆一」の語りもあり、「わたし」という小説家の「小説」が挿入されていたりする複雑なもの。また、ミライの父親について多くの人たちが少しずつ語ることによって徐々に実像を作り上げていくジグソー・パズルのような断片情報が積み上げられていく。加えて、1960年代末から1970年代にかけて発生した事件やイベント、音楽、テレビ番組、映画などの挿話が随所に組み合わされてストーリーが進む。

1973年に開設されたものの園児が起こしたボヤ騒ぎがもとで、一年で閉鎖された「トラウムキンダーガルテン」と名づけられた幼稚園。当時ドイツで提唱された女性解放運動(ウーマンリブ)や自由主義的な育児理論に基づいて創られた共同育児所が下敷きになっている。場所は「板橋区と練馬区に隣接した埼玉県の南のはずれ」、近辺は自衛隊の朝霞駐屯地であることは東京の住人であればすぐ推測はつく。また、その一部はベトナム戦争中キャンプ・ドレイクといわれ野戦病院として使われた施設だ。

責任者の倉橋礼子の娘ミライは出自だけでなく、自分の名前にさえ疑問を持っている、「何故、親は漢字の未来ではなく、カタカナのミライと名づけたのか」。物心ついてベトナム戦争で米軍による虐殺が起こったソンミ村が正しくは「ソンミ村ミライ集落」であると知り、自分の名前は虐殺現場の集落の名前からとられたのではないかと疑ったりしている。

残された写真は、倉橋礼子先生と十二、三人の園児それにシャッターを押すときに通り抜けようとして横顔が写っている一人の男。ミライはこの男が父親と確信している。葛見の姉はその写真を見るなり「この男はゴリだ」という。ミライは「男のことを母はエンジン(厭人)と言っていた」という。

「ゴリ」と「エンジン(厭人)」という二つのあだ名から浮かび上がるのは「宇宙猿人ゴリ」という特撮ヒーロー物のテレビ番組。1971年に製作されたこの番組は、地球侵略を目論む悪役であるゴリを番組名に冠したことから当初から野心的な番組であった。しかし、子供番組のタイトルは正義の味方でなければならないというスポンサー圧力で改変され「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」というタイトルとなり、すぐに「スペクトルマン」というタイトルに再度変更した経緯がある。

そもそもこの番組は極めてラディカルな姿勢で製作されていて、地球をあらゆる経済活動・生産活動で破壊していく人間に対して、宇宙猿人ゴリが公害汚染物質で培養した公害怪獣を使って人間に復讐するというストーリーだ。この番組のタイトルからあだ名を付けられた人物がミライの「父親」である。子供向けの番組とはいえ、製作者たちの思い入れの深さと強さは並みでない。単なる勧善懲悪でない構図を創造し、タイトルにまでその思いを投影しようとしていたということか。「宇宙猿人ゴリ」の主題歌が歌われる。

「自分の理想と / 目的持って  強く生きてる / そのはずなのに  宇宙の敵だと / 言われると  身震いするほど / 腹が立つ 」

この歌詞の中の「宇宙」を「社会」に言い換えると、あの頃の我々が歌っていてもおかしくない歌詞だ。「身震いするほど腹が立つ」という子供向け番組の主題歌にはあまりに似合わない。その他の音楽も小道具として使われる。カーペンターズの「トップオブザワールド」、クリーデンス・クリアウオーター・リバイバル(CCR)の「雨をみたかい(Have you ever seen the rain?)」、サイモンとガーファンケルの「スカボロフェアー」など。例えばCCRの「雨をみたかい」という歌詞はベトナム戦争におけるナパーム弾攻撃の暗喩といわれていたものだ。

三菱重工爆破事件やあさま山荘事件が語られる。その中でミライの母親・倉橋礼子が元米軍駐屯地を徘徊して「鉄条網を切断して入った」とつぶやく場面があるが、「朝霞」「侵入」「基地」という言葉が揃うと我々の世代であれば1971年に発生した一つの事件を思い出す。「赤衛軍」と名乗る過激派が自衛隊の朝霞駐屯地に侵入し武器奪取を試みて、自衛隊員が一人死亡した事件である。こうした時代を思い出させる仕掛けが随所にある。まさにパズルのようだ。

一人の娘の父親探しの旅は続くが「父」を語る人達は時として「父親自身」であるかのようにも思えて、ミライの気持ちが収束することはない。しかし、読み進むと、その収束しない気持ちはその父親たる世代の我々の中でも収束していない部分ではないのかと思う。自由な「トラウムキンダーガルテン」は園児二人によるボヤ騒ぎが原因で一年間をもって閉鎖させられた。その設定は、1960年代後半から1970年代前半の10年間をこの幼稚園の一年に投影させているかのようだ。団塊の世代にとって、なにが、どんな事象が「ボヤ」だったのか。

私は本書で断片的に語られていくあの頃の事象を具体的なイメージに膨らませて読んでいくことは可能だが、若い世代の読者はこの小説をどう読むのだろうか。若い世代の評価も是非聞いてみたいと思う。

わたしは本書をジェット・コースターに乗った気分で読みきった。それは動体視力を試されているようなスピード感であり、ある種の疲れと心地よさをミックスした気分になった。薦めてくれた人に感謝。(正) 

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