崩御と即位【保阪正康】

崩御と即位


書籍名 崩御と即位
著者名 保阪正康
出版社 新潮社(364p)
発刊日 2009.01
希望小売価格 1,890円
書評日等 -
崩御と即位

この数年間に限っても、天皇制および天皇家についていくつかの議論がなされてきた。女性天皇の是非、靖国神社の合祀問題、人格否定問題などであった。しかし、内容の賛否に関わらず、議論の過程においても「象徴」を対象とするが故の踏み込みの甘さが如実に明らかになったし、議論のプロセス自体も曖昧さが目立った状況といえるのではないか。本書は保阪が近代日本史を検証するという視点で「天皇と時代」というキーワードを掲げ、その核心は先帝の「死」と皇位継承者(皇太子)の「天皇への就任」という事象にあるとの思いで書かれたもの。対象としている時代は孝明天皇の崩御から、明治天皇・大正天皇・昭和天皇・今上天皇の即位という範囲である。

時代を古いところから現代に下ってくるという構成をとらず、記述されているイベントは時を行きつ戻りつする。まず、大正天皇の崩御に先立つこと三年前の摂政宮を設置するところから本書は始まっている。大正の十五年間は明治と昭和の狭間にあり、時として深い考察をしにくい期間でもあると思うが、あえてこの時代の検証に近代日本史の最初の切り口を見出そうとする発想は興味深い。

保阪は公表されている資料、とくに各天皇を表裏から補佐した政治家・官僚・侍従などの記録や特に昭和天皇に関しては会見記録を丁寧に読み解いている。書評子としては大正天皇・貞明皇后とこの時代に対する認識が新たになった点が多かった。その一つが、大正天皇の側近たる宮内大臣牧野伸顕(近代日本の新しいタイプの宮廷官僚と評されている)の存在である。大正天皇の「御不能力」に直面し、摂政宮設置を進める官僚としての姿が際立っている。

「・・・・臣下の者として君主の地位がとって変わることを伝える役割を果すことの意味・・・これは天皇への感情や思恭とか畏敬の念よりも、この国の主権者として実際には現状ではその任に欠けると判断した宮廷官僚の冷徹な説得が見てとれる。それは『ゆっくりと御養生を』という一言である。・・・・・」

しかし、官僚の努力や皇室会議での決定を踏まえても、大正天皇は最後の御印を侍従長に渡すことを拒んだ状況が四竃孝輔の「侍従武官日記」に残されている。

「この日、正親町侍従長は御前に罷り出て、摂政殿下に捧ぐべきを以って、御用の印籠(可・聞・覧の御印ある函)御下げを願いたるに、流石に聖上には快く御渡しなく、一度は之を拒ませられたりと漏れ承る。・・・・」

病を得た大正天皇の後半期において貞明皇后の果した役割は大きかったようだ。皇后の歴史感覚がもっとも発揮された事項として皇太子(昭和天皇)を含め四人の皇子たちへの伴侶の選択といわれている。皇太子へ久邇宮邦彦王と俔子妃(薩摩藩島津忠義の七女)の長女良子を選び、秩父宮には会津藩の松平容保の四男松平恒雄の長女節子を、高松宮には徳川慶喜の孫である喜久子を、三笠宮には子爵高木正得(河内の小藩藩主高木正善の長男、昆虫学の泰斗)の 次女百合子であった。

このように近代日本の怨念の清算を四人の皇子の結婚を通じて行い、あらゆる権力を宮中の中に組み込むことに意を使ったといわれてい る。もう少し露骨にいうと、山県有朋を頂点とする長州閥の形成に対抗する意図というのが保阪の見立てである。知恵者が周りにいたとは思うがかなり大胆な戦略をうったものである。結果、保阪は次のようなキーワードを導き出している。

「明治天皇がいわば『西欧の皇帝権力』というシステムを日本に持ち込み、それによって『オモテ』の改革者としての評価を受けた天皇とすると、同時に皇后を頂点とする『ウラ』の改革者として貞明皇后をあげる。・・・」

昭和天皇は摂政宮から天皇即位というプロセスを自ら体験している。そうしたこともあるのであろう、昭和六十三年二月九日の「卜部亮吉侍従日記」の次の記述を興味深く読んだ。この時期は昭和天皇の病状は進み公務の制限も始まっているときである。

「・・・・突然、摂政にしたほうが良いのではとの仰せ。このあと警察と日銀の進講についてご注文。そのための伏線か。侍従長と話す。・・・・」

昭和天皇は体調不良を自覚することで摂政について思慮し、自らが二十歳で摂政となった時に発生した難波大助による発砲事件(虎ノ門事件)を想起したのではないかといわれている。「皇太子を摂政にする」「それに対して不満な国民が暴発する」「政治・経済が混乱する」「警察と日銀のこの件に関する意見を求める」という発想が出てくるのも発砲された当事者としては当然かもしれない。この摂政に関する言葉はその後も侍従に対し繰り返していたという。 このように、歴代天皇が体調を崩し、病に臥している状況の対応も細かく纏められている。

体験としての昭和天皇の崩御までの期間を思い出すのだが、昭和六十三年には病状の一進一退が繰り返し報道されていた。率直な感想といえば、報道と発表内容があまりに詳細であることに対し疑問を感じていたものである。本書を読んでいて孝明天皇崩御は別としても、明治天皇・大正天皇ともに病状が進んだ中での病状発表が詳しくされているのに驚かされた。昭和天皇の病状発表の形は明治天皇の体調悪化の発表時にその原型が作られたようだ。

保阪はそれでも明治・大正両天皇の病状発表は昭和天皇のときとは比較にならないぐらい大まかという目線であるが、しかし、夏目漱石や永井荷風の日記から明治・大正の崩御における報道への疑問が提起されているというのも我意を得たりと読んだ。明治・大正・昭和の三代の天皇の崩御に至るまでの発表に違いがあるとすると昭和天皇の時代はマスコミ対策やマスコミ活用に関して多くのエネルギーが政府や天皇家において割かれていたというのが重要なポイントだと思う。マスコミのあり方や国民が情報を得る手段の多様化など先例とは比べ物にならない変化が昭和の六十数年間に起こっている。同時に、昭和天皇崩御から今上天皇即位のプロセスにおいて以前と異なる点を保阪はこう指摘している。

「明治天皇即位では、大久保利通や伊藤博文、山県有朋らの明治新政府の要人が演出者であり後見人であった。大正天皇の場合は、山県有朋、松方正義、原敬など。昭和天皇の演出者は牧野伸顕、西園寺公望など。昭和天皇崩御から今上天皇即位の際はむしろ宮内庁内部において極めて民主的な合議制のもとで儀式が進んだ。これは天皇制のシステムや天皇家の内部事情がそれまでの時代と様変わりしてきた。・・・・」

まさに、「象徴天皇の儀式」として崩御から即位のプロセスを進めたというのが現在のあり方だろう。今上天皇即位についても演出者というか後見人という影はまったく感じなかった。政府で言えば「平成」と書かれた書を掲げて記者会見をした当時の小渕幹事長のイメージしかない。あれは単なる発表である。万世一系と言いながらも、その形や有り様の変化はかくのごとく大きい。保阪は以前、昭和天皇は過密日程に振り回される「二十四時間型の天皇」であり、特に「国民の二十四時間」と「天皇の二十四時間」という考えが太平洋戦争への過程で軍や政治に利用されたと指摘し、今や、国民との関係においても、今上天皇は「八時間型の天皇」でよろしいのではないかという意見を表明している。それは天皇制と天皇家の新しい姿への一つの有意な提言だと思う。(正)

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