日本鉄道事始め【髙橋団吉】

日本鉄道事始め


書籍名 日本鉄道事始め
著者名 髙橋団吉
出版社 NHK出版(208p)
発刊日 2018.04.11
希望小売価格 1,836円
書評日 2018.08.24
日本鉄道事始め

私は鉄道が好きだ。鉄道好きと言っても色々なカテゴリーがあるのだが、列車に乗る、写真を撮る、切符を集める、模型を作る等、子供の頃から一通りのことをやってきた。今、東京駅から東海道新幹線に乗れば品川の操車場の再開発工事を目にするし、東北新幹線では大宮新都心のビル群が天を突き、昔の操車場跡は面影もない。そうした風景を車窓から眺めていると、鉄道というシステムが時代とともに変わってしまったことを痛感する。

本書の著者である髙橋団吉も鉄道好きであり、鉄道に関する著作を多く書いて来た男だ。ただ、本書は鉄道マニア向けの「近代日本における鉄道」を語っているのではない。鉄道の有り方はその時点の社会システムからの要請から形作られているという事実を直視して「鉄道を通して日本の近代」を考えてみようという狙いの一冊である。

タイトルの通り日本の鉄道における黎明期を仔細に描いているのだが、鉄道が辿って来た歴史を50年、100年といった区切りの事象とともに俯瞰している。ただ、そこから見えてくるのは鉄道が社会インフラの重要な基盤であったことから、国家・社会の変化に無関係ではいられなかった歴史でもある。

新橋・横浜間の開業が明治5年(1872年)。以降日本は欧米に追いつこうと総力を挙げて路線を拡大していき、シンボルとしての赤レンガ造の東京駅をつくり、国産旅客主力蒸気機関車の量産を実現させ、大正11年(1922年)の50周年を迎えた。それまで逓信省の一組織だった鉄道院を鉄道省として独立した省組織までになったが、これは鉄道というインフラが中央集権的国家運営に資するというだけでなく、軍事的な役割としても、重要性を増していったことを象徴的に示している。

次の50年は「太平洋戦争」を挟み、南満州鉄道に代表される植民地政策の一環としての鉄道を生み、敗戦後は復興のシンボルと言われたように、鉄道の利活用はすそ野を広げ昭和39年(1964年)に東海道新幹線の開業に至る。新幹線こそ鉄道開業100周年の重要な到達点として位置付けられているのだが、それは、世界の鉄道が斜陽化していく中で日本の新幹線がその技術と運行の実績に世界から評価されて来たということに他ならない。
加えて、著者は、鉄道開業150周年(2022年)を目前にした今、社会と鉄道の変化の意味を考える契機として「事始め」に立ち戻ってみるべきと指摘している。

鉄道に乗った、最初の日本人は天保12年(1841)に遭難し、アメリカの捕鯨船に救助されアメリカに渡った、中浜万次郎(ジョン万次郎)と言われている。そして、1853年に最初に鉄道という技術を日本に伝えた国は、アメリカのペリーが下田に、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した時である。彼らはともに蒸気車の模型を持ってきたという。特にペリーは1/4スケールの模型を持参し、江戸城内でも運転をしたと言われている。その迫力とインパクトの大きさは想像に難くない。

こうした鉄道に対する知見が加速度的に増えて行った要因は、幕末から明治初期に留学や使節団など欧米に渡った若者達であり、その数は1000人を超える。その中でも影響の大きかったものは福沢諭吉の「西洋事情」であり、欧米の技術として鉄道・電信・ガス灯といったものが詳しく書かれている。当時この本は25万部といわれる大ベストセラーとなった。こうした状況を髙橋は「技術へのあこがれ」と表現しているがなかなか上手い言い方である。

 しかし、こうした鉄道事業に膨大な資金を投入するよりも軍備への資金を優先すべきという意見は明治新政府内に多く、その中心は薩摩藩が牛耳っていた兵部省であった。一方の推進派は大隈重信(佐賀)、伊藤博文(長州)といった蘭学を勉強したり、留学の経験がある人間たちで、彼らは鉄道が中央集権体制への移行を加速する有力なツールとなるとの明確な理解をしていたという。この対立構図は後に、新橋・横浜間の鉄道敷設の路線設計に大きな影響を与えた。

色々な経緯の後、明治新政府はイギリスとの契約を結び鉄道敷設が開始されるのだが、技術論ではない問題が噴出する。私も気になっていたことだが、それは歌川広重(三代)が東京八ッ山下海岸蒸気車鉄道之図」という錦絵に描いた「海中の築堤上を走る蒸気機関車」だ。何故、わざわざ築堤を作って路線を通したのか。品川・横浜間の本来の想定ルートである高輪には鉄道反対派の薩摩藩邸と兵部省の土地が有り、用地取得交渉を避けるために高輪沖に総延長2.7km、巾6.4mの築堤を造成したというのがその理由と聞くと、技術以前に政治は重いといえる。

そして、皮肉にも戦争における兵士や兵器輸送における鉄道の有用性を軍部に気付かせたのは西南戦争であった。政府は品川・横浜間の定期便を運休させて26,000名の警察官・軍人を運び、横浜から船で九州に送り込んでいる。蛇足だが、警察隊を構成していた多くの隊員は旧会津藩や奥州列藩の失職した武士が多かったというのも歴史の皮肉である。

その後の大きな敷設計画として、東京と京阪を結ぶ路線敷設のルートについての議論も紹介されている。軍艦による砲撃を受けやすいことを理由に軍部は東海道案に反対する。一方、中山道案は具体的な測量が始まってみると厳しい峠越えが多く技術的な難しさが露呈して、結果東海道案に落ち着いたものの、名古屋・岐阜・関ケ原・草津間は旧中山道・美濃道を通る路線となっており、現在のJR東海道線の1/4は中山道となっている姿はそうした歴史が見えてくる。

新橋・横浜間の開業はまさに国家イベントであり、明治新政府が各国に向けて日本の発展を示すためのデモンストレーションであった。同時に、進化拡大していった鉄道によって、日本人の意識が変わって行ったことを示すいくつかのエピソードが紹介されている。

鉄道による日本人の生活の大変化は時制である。もともと日本は日の出、日の入りを境として昼を6つ、夜を6つに分割していた。したがって、季節によって昼と夜の長さが変わるという不定時法で生活していた文化である。これが鉄道の運行のためには定時法が不可欠で、鉄道の開業とともに駅長を始め運転士、車掌などは懐中時計を持ち、発着時間を守ることが大きな任務となった。国としても鉄道開業の翌年の元旦から太陽暦に変更している。初期の時刻表が掲載されているが面白い記載が見られる。そこに書かれている当時の時刻表記は「八『字』横浜発」とある。「時」ではなく「字」とは驚いた。運賃を含め開業時の記録からは面白さが沢山見つかる。

鉄道好きとしては重要な論点はゲージの決定の問題なのだが、いままで確たる説があったわけではないが、本書で髙橋は説得力のある推論をしている。また、イギリスのエンジニアで鉄道院の初代技術責任者となったモレルの活躍を単なる鉄道敷設・管理の面からだけでなく、技術者育成の仕組みの確立といった視点からの仕事を描いている。また、日本では新幹線をはじめとして電車が発達して、欧米各国とは異なった進化を遂げてきた。最近の中長距離高速鉄道は各国とも電車が主力になっているものの、以前は機関車が客車を引くという列車編成が多かった。これは、特に欧米各国の歴史が影響しているのだが、その掘り下げ方も面白く、鉄道マニアの私としては面白く読める一冊であった。

日本の鉄道開業当時の明治新政府の気持ちを髙橋は「急がなければならない、恐怖感」という言葉で表現している。列強の中に飲み込まれてしまわないために、国家発展が急務の中で、国内外の政治環境に翻弄される鉄道の姿は技術や努力といった側面からとは違った姿を見せている。同時に我が国の基本インフラとなった鉄道は人々の文化や生活にまで大きな影響を与えてきた。それだけ鉄道という輸送システムが人々の身近なインフラであるということだ。

私にとっては、子供心が揺すぶられた昭和30年代の鉄道への憧憬は進化も風化もせずに残っている。一人で鉄道写真を撮りに行っていた下町の中学生にとって、世田谷砧線、東武鉄道杉戸機関庫、鹿島参宮鉄道竜ヶ崎鉄道の竜ヶ崎など、早朝から夕刻までの冒険旅行は楽しかった。そして今、アルバムのモノクロームの蒸気機関車や畑の中を走る車両の写真を見ていると、それらを撮っていた自分を思い出す。撮影年は1960年と書かれている。58年前のことである。(内池正名)

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