老いの心の十二章【竹中星郎】

老いの心の十二章


書籍名 老いの心の十二章
著者名 竹中星郎
出版社 左右社(240p)
発刊日 2011.04.28
希望小売価格 1,700円
書評日 2011.07.14
老いの心の十二章

「村の渡しの船頭さんは、今年六十のお爺さん・・」という童謡があった。評者は満64歳だから一昔前なら立派に「お爺さん」呼ばわりされてもしかたない歳になってしまった。そのお爺さんが、口だけは達者な86歳の老母と時間を共有するのだから、イライラさせられることも多い。わけのわからない理屈や、その日5回目ぐらいの質問などの相手をしていると、老いとの付き合い方の難しさが痛感される。そんな時、目に留まったのが本書。NHK放送大学のテキストをベースに身体的・精神的の両面から「老い」を解説していて、格好のガイド本として読み終えてみると、自らの老いに対する心構えにも役立ったのは収穫。

まず、「老い」に関する歴史をまとめている。孔子(BC551)やギリシャのキケロ(BC106)などの著作を示しつつ、十七世紀の科学革命を契機として「老い」が学問の対象として体系的に研究され、医学の分野は心理学の発展、臨床医学の誕生とともにケア(看護)の高度化が進んでいった状況。二十世紀に入って、老年医学(Geriatrics)や老年学(Gerontology)が進化してきた経緯など。紹介されている思想や医学・精神学的な学説や理論は個々の知識として断片的には知っているものもあったが、「老い」という切り口で捉える新鮮さが面白かった。まさに良い意味での大掴み教科書的である。

次に高齢社会の状況を俯瞰している。日常的な言葉として使っている高齢社会とは「65才以上の人口が全体の14%を超えた社会(国)」、高齢化社会とは「65才以上の人口が7%を超えた社会」という定義だと正確には初めて知った。高齢社会という観点で日本が特徴的といわれている理由は、65才以上の人口が7%から14%へ倍化するのに24年間で到達したのに対し、フランスは114年、スウェーデンは82年と比較して大幅に短かったために高齢社会としての社会資本蓄積が薄いこと。

また、日本が高齢社会になったのは1994年で、フランスは1979年、スウェーデンは1972年と比較しても、この約20年の時代差が生活水準の著しい変化時期だったため、先進国に比較してより世代間ギャップが広がってしまったこと。

最後は「PPK(ピンピンコロリ)」という言葉に代表されるような、「老いに向き合うことを避けようとする姿勢」が日本人の意識の中にあるという点が指摘されている。昨今の風潮で言えば、年をとらないためのアンチ・エイジングを追い求めている人が多いという状況に象徴される。

しかし、それは「老いの否定」でしかないという著者の指摘はもっともである。「老いをありのままにとらえる」ことこそ真の老人問題に向き合う姿勢との著者の主張に基づいて「老いの現実とは何か」を各章で身体的・精神的な状況や症状、原因そして対処方法を示している。

まず、「生きる空間が狭くなる」ということ。これは、目や耳などの感覚器の衰えや行動の不自由さといった物理的な問題と「孤立」といった心理的な問題を提起している。次に「残された時間をいかに生きるか」と「いかに死ぬか」という表裏一体の意識葛藤があり、同時に「自分らしく生きること」を望みながら、周りの世話になっているという肩身の狭さとの両立。医学的な観点では、一人で多くの病気を抱える(多疾病性)、ちょっとした要因で発病する(多元性)、精神病状を生じやすい(せん病・うつ病・妄想)など老いに特有な状況を正しく理解することが重要と言っている。

こうした老い現実として紹介されている中で気の付いたところがいくつかあった。その一つが「喪失感」についての部分である。

「・・人生は喪失の連続である。若い世代の喪失は新たな創造のスタートとして転機になることも多い。失ったものに代わるものを手に入れることのできる明日がある。・・・・老年にとって喪失するものは歴史が刻み込まれた精神的財産であり、それに変わるものを手に入れることは難しい。老齢者にとっては過去が現在の拠り所なのである。・・・孫の進学や結婚も老齢者にとっては喪失体験である。孫は成長するにつれて祖父母から離れて自分の世界を広げていく。このとき老人は取り残される・・・」

現実に母を見ていて、孫の成長は彼女にとって楽しみであったとしても喪失の対象になっていると感じたことはなかった。孫娘の結婚式も嬉しそう出席していたが、それはまだ母が心身ともに元気だったからだろうか。そのあたりの感覚は母に聞いてみたいという誘惑に駆られるところではある。

また、痴呆において起こるカタストロフ反応については大いに反省させられた。 「・・・・・保持している能力を引き出すことが鍵である。欠落を探すより保持に目を向けると『そのひとらしさ』が浮き彫りになる。・・・・自分ひとりで着替えるように指示されると1時間かかっても終わらないが、衣類を順に手を渡されると5分で終わる。これは訓練を強いられるとますます混乱するというカタストロフ反応の典型である。・・・・・」

「訓練よりも支援」との指摘はその通りだと思う。しかし、クーラーのリモコンの操作やラクラクホンの使い方まで、現代の道具の機能進化とともにその操作はあまりに複雑化してしまった。便利さを享受するために覚えなければいけないことが多すぎる。結果、私の言動も訓練的になってしまっているようだ。元気なときの母を知っているだけに、どうしても彼女の欠落してしまった能力が目に付いてしまう。そして、頑張ってほしいという気持ちも前面に出る。そのため何度となく母からは「口うるさい」とか「ほっといて」とか、挙句の果ては「こんな子じゃなかった」とまで言われてしまうことになる。

「老いを自分らしく生きることに『こうすればいい』といったマニュアルはない。それは 年をとってからのテーマなのではなく、これまでをどう生きてきたかの延長線上にあるからである。・・・だが近代化によって人間を生産性や効率性で評価するようになり、高齢者はネガティブなものと見なされていった・・・高齢者の生き方は上昇を求めているわけではなく、さまざまな生き方をすべて受け入れることが高齢化社会の課題だ。・・」

多様性への対応。反論はない。しかし、家族だけで「老い」に対処することも難しい。さりとてデイ・サービスが全てではないのも明確である。家族と社会の分担のありかたが問われている。ただ、家族という医学的素人が「老い」について正しく理解し、正しく対応することの難しさがある一方、老人の行動・言葉・表情といった外から検知できるもののからだけの判断でなく、そこに至る人生としての精神的な過程なども知るべきだといわれた途端に、肉親というか極論するとそれは子供にしか対応出来ないと言っているに等しい。「老い」の現実を理解し、加えて親の人生・個性を踏まえて正しい対応を行うことが理想であることは判る。しかし、その労力もまた膨大なものだろう。

最後は「いかに死ぬか」という命題だ。著者は「老いと死が医療に管理されている」現状を批判している。医療現場が「死」を敗北とみなして延命治療を実施しているという言い方も出来る。しかし、病院は治療だけでなく、死の看取りの役割も担うべき、との著者の意見は人生の最後の時間のいかに迎えるべきかという命題に対しての答えとして同感である。

老母と接しながら「まいったなァー」と思う事は多い。しかし、介護は覚悟だけでは出来ない。少なくともなぜ老人はそう行動するのか、または行動出来ないかを知ることは意味がある。「老い」について大いに勉強になったので家人に本書を読んで貰おうと考えた。老義母のためではなく、亭主のためにネ。(正) 

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