いま、どんな小説が面白いといって、中国の小説が掛け値なしにいちばんじゃないかと思う。『白檀の刑』は、子どものころ夢中になって読んだ『巌窟王』や『真田十勇士』なんかの、波瀾万丈の物語に興奮した気分を思い出させる小説だった。
国中にエネルギーが沸騰している時代に、その空気が映画や音楽や小説に反映するのは当然のこと。映画は1980年代から中国ニューウェーブとして世界に紹介されたけれど、僕たちが中国の新しい小説を次々に読めるようになったのは、ようやくこの10年のことにすぎない。
上海風俗の先端をゆくセックス描写で話題になったものから、村上春樹や吉本ばななの影響を受けたらしきもの、またラテン・アメリカ文学などと同じ現代文学の範畴に入るものまで、日本に紹介されたものだけでも(それしか僕は読めないけど)「百花斉放」の状態だ。
なかで、莫言の『酒国』(ミステリー調)『豊乳肥臀』(大河小説)、チア・ピンアオの『土門』(中上健次ふうな露地の物語)、鄭義の『神樹』(こちらはマルケス)、高行健の『ある男の聖書』(文革を生きぬいた男の自伝)なんかの、いずれも大長編を面白く読んだ。この本は、映画『赤いコーリャン』の原作者でもある莫言の最新作。
『白檀の刑』のなかで、人間たちは豚やら犬やら蛇やらと区別がつかなくなってうごめきまわり、血や汗や涙や鼻水や体液や糞便にまみれ、全編に田舎芝居の哀切な歌と猫のニャオニャオという鳴き声がひびきわたる。
主な登場人物が5人いる。犬肉屋の女房で色っぽい眉娘が狂言回し役。その亭主でうすのろの小甲。小甲の父親で、清朝の処刑官だった趙甲。眉娘の父親で田舎芝居の座長、孫丙。県知事で、眉娘の愛人でもある銭丁。
時は100年前の清朝末期。山東省でドイツの鉄道敷設工事がはじまり、ドイツ人総督の横暴に怒った孫丙が反乱を起こす。銭丁は孫丙を捕らえ、見せしめのために趙甲、小甲父子を使って極刑である「白檀の刑」に処すことになる。父は罪人、舅と夫は処刑人、愛人が処刑責任者となった眉娘は、その狭間で幾重にも引き裂かれてゆく。
ドイツ軍への反乱という事件は、事実に基づいているらしい。でも、いかにもできすぎの舞台、できすぎの人物設定で、できすぎの芝居のような筋をたどる。そしてこの「できすぎ」は、作者によって意図的に選ばれている。
孫丙は山東省の猫腔(マオチアン)という地方芝居の座長という設定になっており、章の頭には必ず猫腔の歌(「纒綿と哀切なメロディー」)が引かれている。
小説の後半になると、ついには登場人物がその歌を歌いはじめてしまう。反乱の頭目たちは岳飛や孫悟空など英雄豪傑のなりをし、その人物になりきってしまう。せりふの間には「ニャオニャオ」と猫腔独特の合いの手が入る。小説全体が芝居仕立てになって、読者はその芝居を見ているという寸法なのだ。
なにより読む者の肉体感覚を刺激する描写が素晴らしい。ここで人間は特別な生きものではなく、動物と区別のつかないものとして捉えられている。うすのろの小甲には女房は白蛇に、父親は黒豹に、県知事は白虎に見えるのだ。
「おいらの顔も変わって、長い羊の顔になった。おったまげたわい、おいらの本性は山羊で、頭に角を二本生やしておるとはなあ、ニャオニャオ。自分の本性がわかって、おいらはがっかりした。お父の本性は黒豹で、知事さまの本性は白虎、嫁さんの本性は白い大蛇なのに、このおいらは長い髭をした山羊じゃと。山羊なんぞ、なんじゃ。おいらは嫌じゃ」
小甲の稼業は、犬豚を絞めてその肉を売る肉屋。女房の眉娘は飲み屋も経営していて、名物は「犬の臓物煮込みと豚の血粥」。父親の処刑人、趙甲は処刑に際して鶏の血を役者の隈取りのように顔中になすりつける。登場人物はやたらと血や体液や内臓や糞便にまみれ、その色と匂いが小説全体を彩っている。
その最たるものが処刑のシーンだろう。「豚を殺すは下司野郎の職、人を殺すは上流の位じゃぞ」と息子に告げる趙甲はまた、「殺人ほど面白いものはないし、この世の殺人で白檀の刑ほど面白いものはない」ともうそぶく。
その白檀の刑をはじめとして、いろいろな刑罰が登場する。腰刑は青竜刀で体を真っ二つにする刑。下半身を斬られた罪人は、上半身だけを両手で支えて処刑台をはね回る。
「血がそれがしどもの足を濡らし、腸がからみつきました。あやつめの顔は金箔のように、まぶしい黄色をしておりました。波に揉まれる艀みたいな大きな口は、なにやらしきりに意味不明のことを吠えており、血しぶきがピュッピュッと飛び散っておりました」
陵遅(りょうち)の刑は、罪人の肉を刀で500回に分けて切り取り、ちょうど500回目に絶命させるという刑。その描写がすごい。第一刀で罪人の右の乳首を斬りおとし、第二刀で左の乳首を斬りおとす。一刀ごとの描写に、ゾクッとくる。
「わしの耳元では片時も途切れることなく、あの女の歌うとも泣くともつかぬ呻吟と悲鳴とがたゆたい、わしの鼻にはあの女の躰の肉が切り刻まれるときに発するうっとりさせられる匂いが絶えず漂うておる。首のうしろで気味悪い風がヒューヒュー吹くのは、苛立った食肉猛禽類が羽をバタバタさせておるのじゃ」
「もはや最後の一刀を残すのみ。心を突き上げてくる悲しみのなかで、わしが心臓の肉をえぐる。刀の先に突き刺さった棗(なつめ)に似た真っ赤なその肉片は、まるで宝石のようじゃ。わしは雪のように白い女の瓜実顔を感動とともに眺め、胸の奥深くから発せられる深いため息を聞く。女の目の中で火花が煌めくかに見えて、涙が二粒転がり落ちる。唇をわななかせて、女が蚊の鳴くようなか細い声でいうのがわしに聞こえる、『む……じ……つ……』と」
本のタイトルである白檀の刑については、ミステリーの謎解きと同様、ここで説明するのはよそう。でも、ドイツ人総督が「中国は刑罰だけは先進的だ。これぞ中国の芸術であり、中国政治の精髄だ」と述懐するようなものであることだけは確かだ。
この本がすごいのは、もちろん刑罰描写だけではない。登場人物たちははじめのうち、一見、冷酷無残な首切り人だったり、権力をカサにきた好色な役人のように見えるけれども、物語がすすむにつれて、実は『水滸伝』や『三国志』の英雄豪傑を思いおこさせるいい男、いい女ぞろいだということが分かってくる。そしてこれも、作者の意図したところだと僕は思う。
反乱の頭目で猫腔の役者である孫丙は自ら岳飛(南宋時代に金に抵抗した民族英雄)と名乗り、進んで白檀の刑を受ける豪傑だし、処刑人の趙甲も、国家意思を体現すると同時に孫丙を立派に死なそうともする男。その息子でうすのろの小甲は、魯迅描く阿Qの息子でもあるかのように愚かでいとしい。
県知事の銭丁も汚職まみれの役人ではなく、ドイツ軍に殺された村人の側に立ってふるまい、しかし結局は権力の前に無力なインテリとして印象的だ。そしてなにより眉嬢が、「蘇州の絹よりすべすべで、東北の糖瓜より甘い躰」をもち、キップがよく、親思いで、銭丁に一途な愛をささげる(だから引き裂かれるわけだが)魅力的な女として描かれている。皆が皆、作者の愛をたっぷり注ぎこまれているのだ。
莫言は「あとがき」のなかで、本書がヨーロッパ文芸の愛好者からお褒めにあずかる可能性は少ないだろうと述べ、「この小説は、広場で声のかすれた人によって高らかに朗読され、その周りを聴衆が取り巻いているのこそ、よりふさわしいやも知れぬ」と書きつけている。
もともと莫言の小説は、ラテン・アメリカ文学の影響が色濃い鄭義などとは対照的に、大衆小説的に豊かな物語性をもっていた。なかでも『白檀の刑』は、より現代文学に近い『酒国』や『豊乳肥臀』にくらべ、語り物の口調と形式を大胆に取り入れ、虚実が入り乱れ、人物造形なども近代的な人格をもったものとしてではなく、むしろ『水滸伝』に近いものとして描かれている。
没落する清朝を舞台とした英雄豪傑のドラマである『白檀の刑』は、だから現代文学というよりは、中国の民間の語り物や民衆小説の伝統を、そのおどろおどろしさや紛いものめいた肌触りまで含めて現代に蘇らせようとした小説なのだと言えそうだ。
とはいえ、小説がいつのまにか現実を舞台に演じられる芝居そのものになってしまい、読者はその壮大な田舎芝居を見ているという入れ子構造や、登場人物それぞれが独白を繰り返してポリフォニーな重層性をもっていることなど、現代文学の地平を踏まえていることはまぎれもない。「あとがき」の謙遜とは裏腹に、かなりの自信作のはずだ。
最後に、眉嬢と銭丁のラブシーン。
「二人は稲妻のように抱き合っていたーーまるで二匹の蛇のように、力のかぎりつよく。息は止まり、全身の関節がポキポキと鳴る。唇は互いに吸い合って、一つにくっつきあった。男も女も目を閉じて、熱い四枚の唇と二枚の舌だけが、互いに相手を呑みこもうと凄まじい勢いで必死に闘っていた。二人の唇は、灼熱の中で麦芽糖のように溶けた」
こんなエネルギーにあふれた700ページの小説を読んだあとでは、どんな日本の小説を読んでも貧血気味にしか感じられないかもしれないなあ、ニャオニャオ。(雄)
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