今月の本棚

深作自身による深作映画の総括
「映画監督 深作欣二」

深作欣二・山根貞男著
ワイズ出版(528p)2003.7.12

4200円
「時代と寝る」という表現がある。小説にしろ、映画や音楽にしろ、その作り手の個性や個人的な必然性と、時代が求めているものとがドンピシャリ出会った稀な作品。時代を象徴するというより、時代を予感し、その無意識をいちはやく血肉化したつくり手とその作品にこそ、「寝る」という露骨にセックスを指ししめす言い方がふさわしい。

 僕の体感でいえば、1972年の「現代やくざ 人斬り与太」から、5本の「仁義なき戦い」をはさんで1975年の「仁義の墓場」まで、深作欣二は間違いなく70年代という「時代と寝ていた」。

 この本は、映画評論家の山根貞男をインタビュアーに、深作がその生い立ちから遺作となった「バトル・ロワイアル」まで、映画の製作過程や裏話を語ったもの。その分厚さといい、はまり役の聞き手によるロング・インタビューといい、著者が相次いで亡くなったことまで含めて、「仁義なき戦い」の脚本家・笠原和夫の『昭和の劇』(太田出版、2002年11月刊)と対をなすものといえる。

「仁義なき戦い」を中心として、「時代と寝た」深作については多くの人が語り、論じている。でもこの本で興味深いのは、それ以外の時期について、深作が常に東映と、日本の映画界と、それをとりまく時代の空気に異和を感じ、試行錯誤を繰りかえしていたことだ。そこがまた、いかにも深作らしい。

 昭和20年、15歳の深作は敗戦を水戸で迎えた。その直前、艦砲射撃でやられた民間人の散りじりになった死体を拾いあつめた体験や、敗戦後の闇市をぶらつき、映画漬けになった日々が、後の深作を決定づける。

 日大芸術学部映画学科を卒業して東映に入社したのが1953年。当時、東映は京都撮影所でつくる「笛吹童子」や「紅孔雀」が大ヒットしていたが、深作が助監督として配属された東京撮影所は添えものの現代劇をつくっていた。

 全盛期を迎えた東映が第二東映を設立し、量産態勢を整えるなかで深作は監督としてデビューする。習作めいた映画を4本ほど撮った後、初めての深作らしい作品「白昼の無頼漢」が1961年につくられる。以後、「誇り高き挑戦」「ギャング対Gメン」「ギャング同盟」「狼と豚と人間」とギャング映画の時代が、いわば深作の第1の試行錯誤の時期となる。

 僕が「誇り高き挑戦」を見たのは大学の映画研究会の上映会だった。封切りから数年たっていて、当時、深作はこの作品のせいで会社からホサれているという噂だった。

 武器密輸をめぐるアクション映画だけれど、明らかな反体制・反米のメッセージ。ラストシーン、国会議事堂を背に鶴田浩二がサングラスをはずして挑戦の意思を露わにするシーンでは拍手がわいた。まあ、当時の映画青年好みの政治性の強い映画だったわけだ。

「ドンパチをむやみにやる無国籍アクションの調子よりは、もうちょっと占領下だった日本に引きつけての、アクションというよりはスリラーというかな、そっちにならないか」と意図しながらも、「自分のなかでも未消化な部分がかなりあった」。

 会社からは「理屈が多い、淀んでる、反米とは何ごとだ」という評価。客の入りも良くなかったが、アクション・シーンの切れのよさは誰もが認めた。

 やがて東映は時代劇からやくざ映画に路線転換してゆく。「解散式」「博徒解散式」などの現代やくざ映画をつくりつつ、フリーランスになって他社作品やテレビ映画をつくっていた60年代後半から70年代前半が、深作の第2の試行錯誤期といえる。

 会社がやくざ路線を走りだしてからも、深作は任侠映画をつくることに執拗に抵抗していた。

「我慢して最後にひっくりかえすというのは、やくざ映画の構造理念で、自分を投げ出して万歳突撃して悪を倒すという日本的美学ですよ。それは絶対に嘘だと。太平洋戦争の最中にいやというほどくりかえしたことですよね。日本の軍隊も民衆も、自分の空襲体験とかいろんなことを踏まえて、万歳突撃の玉砕というのは抵抗にならない」

 そんなこだわりと会社からの要請との葛藤をへてつくられたのが「解散式」。やくざ組織を会社組織へと組みかえ、自らもビジネスマン然とした渡辺文男の悪玉が格好よかった。ラストも「万歳突撃」の殴りこみではなく、石油コンビナートを背景に、着流しの鶴田浩二と悪玉との対決だったと記憶する。

 荒涼とした現代風景と古風な着流しの映像の齟齬がいかにも深作らしく、任侠映画のカタルシスはない。そのかわり「約束ごと」の世界にいきなり今日性を持ちこんだ、生硬ではあるが奇妙にシュールな味わいの映画だった。

 一方、1972年に東宝でつくった「軍旗はためく下に」は、その年のベストテンで2位に入り、良心的な反戦映画と評価されたが、深作はこれをつくったことで自らの映画の観念性に見切りをつける。「『軍旗はためく下に』を撮ったお陰で、理屈を表に出したらオシマイや、と自分で納得がいった気がします。理性から解放されたというか(笑)」 

 ここから深作の疾走が始まる。1972年の「現代やくざ 人斬り与太」から1977年の「北陸代理戦争」まで、傑作が濫発される。この本に刺激されて「仁義なき戦い」4本を20年ぶりに見直したが、その激しく揺れ動く映像のリズムには、いま見てもうっとりさせられる。

 僕は個人的には「仁義」の直前に撮られた2本の「人斬り与太」シリーズが好きだ。1972年、深作はこんな状況のなかでそのシナリオを書いている。

「新宿の風林会館の裏あたりに連れ込み宿みたいなのがあったんです。そこへ行って、周りがわんわん賑やかなところで仕事をやってると、カーッとなって欲求不満がたぎってくるけど、かえってそれが刺激になる。そうやっていたら、連合赤軍事件のテレビ中継が始まったわけですよ。浅間山荘事件。ホンどころじゃなくて釘付けになって」

「それを見ているうちに、これはやくざの世界へそのまま持ち込みきれないけれど、この緊迫感だけは持ってないと、約束に振り回されてるやくざ映画じゃどうしようもないなと思いだしたんです」

 菅原文太が無軌道に突っ走る「人斬り与太」シリーズは、そのまま「仁義なき戦い」へとなだれこんでゆく。その至福の時代は「仁義の墓場」まで4年も続いたというか、4年しか続かなかったというべきか。やがて実録路線にも行きづまりがやってくる。
 
 そこから深作の第3の試行錯誤がはじまる。70年代後半から、「柳生一族の陰謀」で時代劇、「宇宙からのメッセージ」ではSF、「復活の日」など一連の角川映画、「魔界転生」など伝奇もの、「道頓堀川」「蒲田行進曲」などの松坂慶子もの、文芸ものの「火宅の人」、歴史ものの「華の乱」など、ありとあらゆるジャンルの作品を手がけている。

 それだけ客を呼べる監督としての評価があったわけだし、事実、ヒットした作品も多い。でも、僕の見たかぎり、けっこう面白いじゃんと思う作品はあっても、震えのくるような映画はない。

 僕自身の興味が日本映画から離れたこともあるが、それ以上に「アクション映画を支える精神的基盤がなくなった」時代の変化が、その底にある。

 映画がはらむ熱気に観客が引きこまれるのではなく、逆に白けてしまう。そのことによってまた、映画に熱と力を呼びこむことができなくなるという悪循環。深作自身もそのことに気づいていた。そこで必要なのは「ドラマの構造をぶっこわしていくこと」だが、そのような映画は生まれなかった。それはひとり深作個人の問題ではない。

「80年代以降は、変わっていく時代のなかで停滞していたということです。私の監督生活のなかではいいようのない重い停滞の時期だったと思います」

 この本のロング・インタビューは、深作がガンを告知された以後にはじめられている。だからこれは深作自身による深作映画の総括であり、遺言のようなものだ。それだけに、自身の晩年に対する苦い評価は正確であり、それだけに彼の誠実さを浮き彫りにもする。

 彼の遺作となった「バトル・ロワイアル」は、深作としては久しぶりに時代と斬りむすぶ自分のテーマにぶつかった、という手応えを感じたようだ。

「血みどろのおぞましさを併せ持ちながらも、爽やかな青春映画になったなあと思います。バイオレンス映画ですけれど、いままで僕の撮ってきたバイオレンス映画とは違うはずです」

 つくり手にとって、最新作が常に最高の出来であると感じられるのは宿命ともいえる。だから「バトル・ロワイアル」が深作自身の評価に価するものかどうかは、ひとまず措く。

 でも60本以上の娯楽映画を監督し、そのなかに自身のこだわりを持ち込み、そのことによって何本かの「時代と寝た」映画をつくりえた深作欣二は、疑いもなく幸せな映画監督だった。それらの傑作を同時代の空気を吸いながら共有できた僕たちもまた幸せだったのだと、今にして思う。(雄)