俳句の本というと季語に対する個人的思い入れが先走るものが多い。この本は一味違う。筆者の教養の幅広さや人生観の深さを最初から最後まで感じさせる。こうした凝縮を一冊の本全体を通して継続することは筆力だけで出来ることではない。だからこそ一気に読みきってしまう快適さと同時に流れるような知的時間を過ごす快楽に浸れる楽しさがある。
朝日俳壇選者として長谷川櫂の名前は知っていたが、その著作に接するのは評者は初めてであった。従って、長谷川櫂の人となりも知らなかったが、読み終えた感想は、この人は生活感としてごく普通の人なのだと納得する安心感であった。俳句と生活・人生の係わりと本書の狙いを次のように語っている。
「ときには俳句はその人の人生を変えてしまうことさえある。芭蕉は旅のうちに人生を送り、子規は六尺の病床で人生を終えた。しかし、芭蕉は旅のつれづれの慰めに俳句を詠んだのではなく、子規もまた病の気晴らしに俳句を詠んだのではない。芭蕉は俳句に誘われて旅立ったのであり、子規は俳句に助けられて重い病と闘った。・・・俳句を詠む人にとって俳句はしばしば密室の中の秘めごとであり、詠まない人にとってはよそごとである。そのお互いの壁を壊し広々とした時空を開くささやかなきっかけになればこれにまさる喜びはない。」
章立ては季節・季語ごとといったありきたりの構成でなく、切る・生かす・取り合わせ・面影・捨てる・庵・時間・習う・友・俳・平気・老い、といったまさに生活密着の切り口から語りかける。たとえば、庵の章はこうして始まる。
「私の部屋の本棚にジョン・ポーソンというイギリスの建築家の写真作品集がある。・・・最後の章で自身のロンドンの住まいが紹介してある。・・この写真が撮影されたのは夏だった。テラスの桜の木陰にも木の食卓が、・・懐かしい思い出の中の光景のように置かれている。
冷し酒この夕空を惜しむべく 櫂
美しい夏の日の夕暮れ、二、三人の友人とこのテラスで冷たい白ワインを飲みながら語り合うならばどんなに楽しいものに思えるだろうか。・・・ポーソンの作風は建築の最小限の要素を際立たせる。これをミニマリズムと呼ぶらしい。・・・」
ここからミニマリズムの究極ともいえる庵の憧れを語る。
「鴨長明が終の栖として日野山に結んだという草庵は「方丈記」によると四畳半一間くらいの建物である。長明が草庵に暮らしたのは六十才になってからである。・・・初めの屋敷に比べると千分の一の大きさだった。
鎌倉の草庵春の嵐かな 高浜虚子
・・・・・・・庵とは世を捨てた果ての終の栖だった。」
そして、世を捨てる意味を長谷川自身が会社を辞めて俳人として生きる決断をした経緯を綴りながらその厳しさを表現している。
「数年前に新聞社を辞めて俳人となった。・・・現代の社会で会社をやめるということは、まして俳人という無用の人になるということは世捨て人となるのも同然である、自分をいったん捨てるということである。そこまでして会社を辞めるのは、かけがえのない自由が欲しいからである。世間に囚われている自分自身からも自由の身となって生きたいからである。
天地をわが宿として桜かな 櫂 ・・・・・」
俳人を無用の人とまで言い放つのにはとてもついて行けないが、そこまで自分を追い詰めることで真の自由を得られるということか。
吉川英治の武蔵、京料理と京野菜、人間の脳、陶器、利休、谷崎潤一郎、安藤忠雄、アルマーニ、等などが多くの俳句・俳人を軸として語られる。けして知識として語られるのではなく、生活として捉えられているところに長谷川櫂の人生の豊かさが感じられる。「紀貫之・古今和歌集」「松尾芭蕉・猿蓑」「正岡子規・病床六尺」といった歌人・俳人に対する想いを基軸にして長谷川の狙い通り、広々とした時空は開け、読み終えて自分も豊かな気持ちになれる好書である。(正)
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