今月の本棚

「公安警察の手口」

鈴木邦男著
ちくま新書(208p)2004.10.10

680円+税
公安警察の伝家の宝刀に「ころび公妨」ってのがあるそうだ。「公妨」とは公務執行妨害。つまり、狙った相手を公務執行妨害で逮捕するための必殺技。

こいつを逮捕しようと的を定めた相手を呼びとめる。いいがかりをつけて相手と揉みあって、自分で転んでしまう。「イタタタ。お前がやったんだ。暴行だ。公務執行妨害で逮捕!」というわけ。オウムを追ったドキュメンタリー映画『A』には、この「ころび公妨」の現場が記録されている。

 似たような話は元衆議院議員・
白川勝彦氏のHPにも掲載されている。白川氏は路上で4人の警官から職務質問を受け、ポケットの中を見せろと迫られて、逃げられないよう取り囲まれてしまう。警官に手を出したり、押しのけたりしたら公務執行妨害で逮捕するという狙いが明白なので、白川氏は延々と押し問答を繰り返す。職務質問に答えるのはあくまで任意だから、これは違法なやり口だ。

「監視社会」という言葉が、最近、いろいろな場面で使われている。世界的には9.11以来のテロへの恐怖から、国内的にはテロに加えて種々の犯罪、特に子供をターゲットにした犯罪の増加から、セキュリティーへの関心が急速に高まっている。

「監視社会」という場合、監視カメラの設置や携帯電話を使った位置確認など情報技術の高度化による新しいセキュリティーのシステムを指すことが多いけれど、国家の古典的なセキュリティー担当部門である公安警察も、依然として大きな「闇」「伏魔殿」(いずれも著者の言葉)として存在している。

鈴木邦男は1970年代から新右翼・民族派の団体「一水会」のリーダーとして活動してきた。現在は政治運動から身を引いて言論活動に専念しているが、その間、公安から数十回の家宅捜査を受け、時には逮捕もされた。そんな経歴をもった著者だからこそ描けた公安警察の実態は、普段、ふつうの市民の目からは隠されているだけに、驚くことばかりだ。

最近の家宅捜索(ガサ入れ)では、公安は揃いの帽子、揃いの服で目立つような格好をしている。しかも携帯で大声で話し、金属探知機など使って大げさな捜索をする。本来の目的とは別に、隣近所に「ここに怪しい奴がいるぞ」と警戒心を起こさせるためだ。著者は、そんなガサ入れを繰り返され、アパートも事務所も何度も追い出されたという。

右翼には思想的なグループばかりでなく、金になるからと右翼の看板をかかげているヤクザもいる。ヤクザが右翼団体を結成すると、どう活動したらいいか、公安は指導までしてくれるらしい。「とりあえず軍歌をかけて朝から晩まで街宣車を走らせたらいい。でも、右翼団体となると綱領とか規約が必要ですね。そんなものは私らが作ってあげましょう」なんてアドバイスするそうだ。

公安は時に事件をそそのかすことさえする。ヤクザの右翼に覚醒剤かなにかで逮捕状が出ると、公安はその男につぶやく。「クスリなんかで捕まったら恥ずかしいでしょう。どうです、共産党か日教組に突っ込みませんか。そうしたら政治犯として逮捕されます」「なに、直前にぼくが止めますよ。それなら逮捕されても二十三日で出られます。男が上がります」

公安が監視の対象にしているのは主に左翼と右翼だけれど、左翼に対しては組織内に「協力者」(スパイ)をつくるのが、右翼に対しては「公然とつきあい、酒を酌み交わし、ときには交通違反を揉み消して恩を売り、手なずけようとする」のが基本だという。

公安警察の歴史をふりかえると、戦後の公安は武装闘争路線を取っていた日本共産党に対する対策として生まれた。1960年代に入って新左翼が生まれ、右翼のテロも頻発するようになると、公安の組織はいよいよ大きくなった。警察内部でも、刑事犯を相手にする刑事警察に対して、政治的存在である公安警察が大きな権力をにぎるようになった。

新左翼の運動が激化した1970年前後に大きく膨張した公安警察は、その後、新左翼が退潮し右翼の事件が少なくなってからもその規模を保ったまま、最近ではオウムなどの宗教団体や「国際テロ対策」へと主力をシフトしている。

著者の取材によると、公安の人員は警察庁警備局(全国)に約1000人、警視庁公安部(東京)に2000人、公安調査庁に2000人いるという。いずれも推定で、正確な人員や金の使い方は闇のなかだ。その人員と予算を守るために、オウムの危険性やテロの恐怖が必要以上に叫ばれている。公安調査庁は、オウムに破防法を適用して存在意義を示そうとやっきになっている。

だから左翼と右翼の活動家は公安にとって大事な「顧客」であり、「お客さん」であり、公安の「生活の糧」になっている。いったん目をつけた「お客さん」に対しては、たとえ政治活動から身を引いて一般市民に戻っても、ずっと監視しつづけるシステムができている。

彼らの論理によれば、一見おとなしくしていても、いつまた過激な行動を起こすか分からないからだ。武装闘争を放棄して半世紀たつ日本共産党がいまだに公安の最大のターゲットであるのも、そのような「公安の論理」に基づいている。

鈴木は自らの体験と取材をもとに、日本の公安警察をこう結論づけている。

「公安がいるために日本の治安が守られているのではない。逆に、公安が事件を起こし、治安を撹乱させているのだ」

ほとんどの市民にとっては、公安警察は目に入らない存在だ。でも、風邪をひき少々むさくるしい格好で歩いていただけで職務質問された白川勝彦氏の例が示すように(氏を取り囲んだ警官は公安ではなかったが、一般の警官にも路上でどんどん職務質問するよう指示が出ているらしい)、警察による市民の監視は目に見えて厳しくなってきている。

公安の警察官が日常活動のなかで求められているのは、「潜在右翼」や「潜在左翼」を見つけることだという。彼らは、軽い気持ちで集会に顔を出した参加者や、事務所とか自宅の壁に張られたポスター、胸のバッジや、会話のなかのちょっとした言葉遣いといった、かすかな兆候を過大に解釈する。

自分は過激な左翼や右翼ではないし、狂信的な宗教団体の信者でもないし、ましてや犯罪者でもないと思っていても、「公安の論理」からは、すべての市民が潜在的な過激派であり狂信者であり犯罪者なのだということが、この本を読むとよく分かる。そこから「警察国家」への道は一直線につながっている。(雄)