だいぶ前から予告されていたレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』の村上春樹による新訳が店頭に並んだ日、いそいそと行きつけの本屋へ出かけて買い求めた。
まず600ページ近い厚さのずっしりした重みと、派手なカバーに目がいく。深紅に黄色の大胆な配色に、昔の拳銃をあしらったデザイン。1940年代のペーパーバックが持っていたチープさを現代ふうにアレンジしたそれは、アメリカの売れっ子ブック・デザイナー、チップ・キッドの手になるものだ。
『ロング・グッドバイ』を読むのは30年ぶり。以前に読んだのは、同じ早川書房から出ていた「世界ミステリ全集」に収められた清水俊二訳の『長いお別れ』だった。もともと新書判のポケット・ミステリーで1958年に出版されたものだけど、僕が読もうとした1970年代末にはポケ・ミスは品切れで、この全集版しかなかったのだ。
そのころはもうロバート・パーカーやビル・プロンジーニといったネオ・ハードボイルドが菊池光らの最新の翻訳で紹介されていたから、刊行から20年たっていた清水訳の言葉使いは、当時でもいささか時代からずれていると感じた記憶がある。
僕は映画館で清水俊二が訳した字幕の数々を同時代で見ている、たぶん最後に近い世代だろう。植草甚一や双葉十三郎とほぼ同世代の明治生まれ。戦前のモダニズムの匂いを感じさせる風貌であり、文体だった。その清水訳が刊行されてからほぼ50年たち、村上春樹が言うように「選ばれた言葉や表現の古さがだんだん目につくようになって」きたのは、言葉が生きものである以上、当然といえば当然だろう。
たとえば、この小説のいちばんの名場面。私立探偵フィリップ・マーロウの前に死んだはずの友人、テリー・レノックスが姿を変えて現れ、素顔をあかす瞬間はこう訳されている。
「彼は手を顔にあげて、色眼鏡をはずした。人間の眼の色はだれにも変えることができない。『ギムレットにはまだ早すぎるね』と、彼はいった」(清水訳)
「彼は手を伸ばして、サングラスを外した。瞳の色を変えることまではできない。
『ギムレットを飲むには少し早すぎるね』と彼は言った」(村上訳)
「色眼鏡」という死語が「サングラス」になっているのは当然として、続く一文が清水訳ではかっちりした感じで訳されているのに対し、村上訳では短く畳みかけて軽快なリズムをつくり、次の有名な決めゼリフを引き立てている。ま、どっちが好きかは好みの問題ですが。
村上訳を1週間かけてじっくり楽しんで、僕ははじめてこの小説が隅々まで理解できたような気がした。30年前に清水訳で読んだときは、こっちがまだ20代後半でチャンドラーを読みこなすほど成熟していなかったことは確かだとしても、ストーリーやディテールでよく分からない部分がしこりのように残ったのだった。
ひとつには村上春樹が解説で書いているように、清水訳には、限られた字数で勝負する字幕翻訳者の手になったせいか、かなりの省略、訳していない部分があったためかもしれない(え? そうだったの?)。
あるいは、「あのおかま(クイーン)が彼を殺したのだ」(村上訳)が「女王が彼を殺してしまった」(清水訳)と訳されているように、当時としては致し方ないとはいえ、アメリカの風俗や文化的な背景についての情報が十分でなかったという事情が訳文に反映しているせいかもしれない。
いずれにしろチャンドラー(あるいはハードボイルド小説)は心理描写をまったくせず、主人公マーロウの行動や会話や眼に映ったものなど外側に表れたもので内面を比喩的に表現するスタイルをとる。だから外側のディテールがていねいに訳されていないと、読者はなにかが喉に引っかかっているような違和感をもち、しこりを残したまま読み進めることになってしまうのだ。
「隅々まで理解できた」と感じたのは、村上訳ではさすがにそのあたりへの目配りがきちんと行き届いているということだろう。僕は原文を読んでいないので清水訳との比較でしか言えないけれど、村上の翻訳は、彼が目指した「細かいところまでくまなく訳され、現代の感覚(に近いもの)で洗い直された『ロング・グッドバイ』」に限りなく近づいていると思う。
そして興味深いのは、一部の村上ファンはがっかりするかもしれないけれど、いわゆる「村上春樹調」の訳文が多分意識的に避けられていることだ。
アメリカ小説ふうの言い回し、突飛でしゃれた比喩とユーモア。そんな「村上春樹調」は、もともと彼がチャンドラーをはじめとするアメリカ小説に耽溺するなかでできあがったものだったろう。でもそこから学んだ当の本家を日本語に移すに当たって、彼は「心して原文に忠実に翻訳した」と書いている。
僕の記憶では、彼の初期の翻訳、たとえばスコット・フィッツジェラルドの『マイ・ロスト・シティ』なんかはいわゆる「村上春樹調」の訳文がところどころ目についた。そういう「意訳」を避けたということは、翻訳家としての村上春樹もまた成熟したということだろうか。
彼は解説のなかで、『ロング・グッドバイ』はフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を意識していたのではないか、という仮説を出している。村上訳を読んでいると、(ちょっと前に同じ村上訳の『グレート・ギャツビー』を読んだせいもあるけど)確かに人物や場所の設定、友情とその喪失というテーマなど似ている部分があって、村上の仮説は十分に納得できる。『ロング・グッドバイ』は『ギャツビー』の登場人物たちが引き起こしたクライム・ストーリー、と言ってもいいのかもしれない。
もうひとつ、今回の新訳を読んで気づいたのは、最後の章、自殺したはずのテリー・レノックスがマーロウの前に姿を現すクライマックスはまるで『第三の男』じゃないか、ということ。これは誰かがとっくに指摘しているのかもしれないけど、30年前に読んだときにはまったく気づかなかった。
ジョセフ・コットン演ずる三文小説家ホリーが、友人のハリー・ライムが交通事故で死んだことに疑問をもち、あちこち動きまわるうちに背後の犯罪を突つきだしてしまう。
死んだはずのハリー、オーソン・ウェルズが廃墟のなかから小説家の前に姿を現すシーンは、殺人を告白して自殺した友人テリーの無実を証明するためにマーロウが動き回ったことがテリーをめぐる闇世界を刺激し、ついにテリーがマーロウの前に姿を現すことになる最終章とそっくりではないか。
オーソン・ウェルズはただ友情のためだけに闇のなかから姿を現したのではなかった。友人ホリーに、これ以上事件を突つくな、と警告するために姿を見せたのでもあった。とすると、テリー・レノックスがマーロウの前に姿を現したのもまた、似たような意味合いを持っているとも考えられる。
昔読んだ印象では、この最後の場面、テリーはマーロウを騙したことを謝り友情の回復を求めて現れたのに、マーロウが「もう遅い」と拒絶したと読んだのだけど、それは若かった未熟な読みのせいで、確かにテリーにそんな気持ちがあったにせよ、同時にマーロウにこれ以上事件を突つくなと警告するためでもあったと受け取れる。そう考えると、ラストシーンのマーロウの孤独はいっそうその陰影を増す。
グレアム・グリーンが脚本を書いた『第三の男』は、『ロング・グッドバイ』刊行の4年前、1949年に公開されている。ハリウッドでシナリオ・ライターとして生計を立てていたチャンドラーが、この名作のことを知らなかったはずはない。
といって、別に『ロンググッドバイ』のクライマックスには『第三の男』の影響がある、なんてことを殊更に言いたいのではない。この小説がチャンドラー独自の眼と感覚と文体を持った、『グレート・ギャツビー』からも『第三の男』からも独立したオリジナルな「準古典」(村上春樹の表現)であることは、僕風情が今さら言うことでもない。
でも、「ギムレットには早すぎる」という『ロング・グッドバイ』の決めゼリフは、ひょっとしたらオーソン・ウェルズが観覧車のなかでつぶやく「ボルジア家の圧制はルネサンスを生んだが、スイス500年の平和は鳩時計を生んだだけだ」というセリフの決め方に遙かに呼応しているかもしれない、なんて夢想するだけでも楽しいじゃないか。(雄)
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