本書は「A Modern History of Japan」の日本語訳である。アンドルー・ゴードンは、1995年以降ハーバード大の歴史学教授を勤めた日本労働史研究の第一人者であり、同大のE.O.ライシャワー日本研究所所長も勤めた知日派の一人。2003年の英語版出版に続いて中国語・ハングル・スペイン語版が刊行されている中での日本語版の出版である。
日本の近・現代史の分野でこの数年の間にジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」や、ハーバート・ビックスの「昭和天皇」といった日本戦後研究の大作が立て続けに刊行されたのは記憶に新しいが、これらのピュリツアー賞を受賞した作品とともに、世界史における日本を物語るものとして本書は評価されてしかるべきだと思う。
このような成果が海外、特にアメリカから発信されているのに対し、日本発の戦後研究著作の多くは世界にその成果を問う姿勢が弱くなっており、明らかに海外発と日本発の間はバランスを欠きつつあると思わざるを得ない。
さて、本書では200年間を歴史のスパンとして選択しているのだが、ヨーロッパにおける産業革命をはじめとして、アメリカ合衆国の成立など社会変革が継続し、進化していたこの200年という時間軸は世界史的にも同時代としての日本にとっても当然変革の波に洗われ続けた時代である。
その構成として四つの時代に分割している。第一は徳川体制の成り立ちから倒幕に到る時代。第二は近代革命(武士による革命としての明治維新)の1868年から1900年代初頭の時代。第三は帝国日本の興隆から崩壊という1910年代から1950年の時代。第四は戦後日本と現代日本という1952年から2000年までの時代。
こうした時代区分に違和感はさしてないものの、いくつかの気になる捉え方もある。例えば第四部で戦後日本のスタート時期を日米講和条約締結の1952年としているのだが、1945年8月15日の太平洋戦争の終戦を区切りとしていない。著者は日米講和条約締結以前は貫戦期としてみているのである。そして戦後も戦前・戦中からの大企業・政党・官僚機構という三つの組織が持続的ヘゲモニーを確立して、旧勢力が「無事に難関を切り抜けた」という重要性とともに、膨大な中間層が戦後システムに利害関係を持ちそのエネルギーを集中したことが占領期の改革の残した遺産とする考え方である。
また、アンドルー・ゴードンは、日本を特殊な国としてとらえるのではなく「日本という場で、たまたま展開した特殊「近代的」な物語」を記述することであり、「特殊日本的な物語」を語るのではないと言っている。この姿勢の対極として「新しい歴史教科書を作る会」が発刊とともに発信したパンフレットの記述を引きつつ考え方の違いを語っている。
「日本のいわゆる『歴史修正主義者』たちの集団、『新しい歴史教科書を作る会』は、1990年代の末にアメリカのアジア学会の会員に送ったパンフレットの中で次のように主張した。『それぞれの国は、他の国々と異なる独自の歴史認識を持っている。さまざまな国が歴史認識を共有することは不可能である』。はたしてそうだろうか。本書は、これとはちがう精神に立って、つまり、私たちのだれもが、それぞれの国の歴史について共通理解に到達することに関心を持ち、そうした共通理解について考え、それに向けて努力する義務を共有している、という想定に立って書かれている。・・これは、世界各地の歴史経験が遠い過去のことか、近現代のことかにかかわらず、すべからく同じだと主張することとは違う。歴史家の技法の本質は、さまざまな時代や場所にみられる特有の社会構造や社会思想を分析する場合に、ユニークさを強調するあまり、それらを、他の時代・地域の人々の経験とまったく共通点がない、隔絶した、ある特定の国だけに固有な神秘的な本質であるかのようにとらえることなく、そうした社会思想に光を当て、それらがどのように循環し、変遷をとげたかを跡づけることだ」
このように、特に日本版のまえがきでは鮮明に「新しい歴史教科書をつくる会」の発想を、否定していると同時に、本書のタイトルについてアンドルー・ゴードンの考えが強く示されている。
「本書のタイトルは、近現代性と相互関連性というふたつのテーマの重要性を表現している。本書のような作品には、Modern Japanese Historyというタイトルをつけるのが普通だろう。しかし、そのようなタイトルをつけることは、日本的特殊性が叙述の中心になることを示唆する、という意味を持つはずであり、「近代」と呼ばれている時代にたまたま生じた、特殊「日本的な」物語へと読者の目を向けさせる、というニュアンスを持つだろう。本書は、日本的であることと近代性とのあいだのそのようなバランスを転換したいという狙いから、A Modern History of Japan を採用した。」
上・下に分かれた本書は学生に読んで見なさいというには高価(上・下で5600円)であるが、団塊の世代が受験勉強で学んだ、「世界史」と「日本史」に分けるという中学・高校の歴史教育のあり方の限界を埋め合わせるという読み方が一つある。近・現代史は「日本史」だけでも意味はないし「世界史」という範囲でも意味は無い。加えて、明治以降の近現代史は高校時代の教育では時間の無い中で最後に端折って教えられたかそもそも教えてもらわなかった。そして、現代史が大学入試の日本史で出題されることはほとんどなかった。
また、日本人以外の視点で日本をどう理解しているかということの興味による読み方がもう一つ。端的に言えば、我々が学習した歴史や文化の世界史的な視点での非対称性は中国に関する知識に典型的現れている。それは日本において全てが「日本語」で教育されているため、当の中国人と歴史や文化を語るときに中国人と話が出来ないということが良くあった。アメリカ人の方がともかく中国人と歴史を語り合っている。理由は簡単で、アメリカ人は人名・固有名詞を中国の音読で教育されているし、メディアも中国読みの発音や表記をしている。したがって中身の深さはどうであれ、アメリカ人と中国人は歴史であれ、政治であれ最低限の会話が成り立つ。
その点、日本人は過去から中国に関する膨大な知識を学びながら、そもそも固有名詞を共通した形で会話できないために会話にならないのである。それは日本では中国から多くの知識・知恵を取り入れたものの、我々日本人は中国人とそれについて対話するという気持ちが無かったからかもしれない。そうしたところに日本人のもつ相互関連性を理解する弱さが隠れているのだろう。(正) |