今月の本棚

「戦略の本質
戦史に学ぶ逆転のリーダーシップ

野中郁次郎、戸部良一、鎌田伸一、
寺本 義也、杉之尾宜生、村井友秀
日本経済新聞社(380 p)2005.08.06

2310円(税込み)
「失敗の本質-日本軍の組織論的研究」が世に出てから早いもので20年以上が過ぎた。同じチームが「逆転のリーダーシップ」をテーマとして戦略論の提起を行っている。扱っているケースは国共内戦時の紅軍の反「包囲討伐」戦、第二次大戦・英独のバトル・オブ・ブリテン、同じく独露のスターリングラード攻防戦、朝鮮戦争、第四次中東戦争、ベトナム戦争という六つの戦い。

おのおのの戦いは全て追い詰められた側が逆転勝利を収めたケースであり、そこから逆転の戦略を読み解こうとする試みである。前書と同様、戦争そのものの善悪を分析するという視点はない。あくまで戦いに勝つために何を考え、何をしたのかという事実を掘り下げていく。

戦略論は、どうしても選択されるケースが戦争を対象にしているため、客観的な戦略論から政治的・史観的な視点に流されていく危険は常に存在する。それが戦史から学ぶ難しさであるし、分析する難しさでもある。「失敗の本質」が1984年に刊行された時代は政治と史観の両方の視点から距離を置いて、大東亜戦争と日本陸海軍を客観的に分析出来る時代になった頃ということだし、失敗から学ぶリーダーシップ論が経営において適合できると考えられた時代だった。

そして戦後60年、日本は国内の横並び競争の中で戦略なき経済の繁栄を謳歌した結果、グローバル競争に直面して初めて戦略の重要さに気づき、そして「失われた10年」を過ごしたのが日本だったといえる。それだけに今、逆転の戦略として本書が書かれた時代的必然があるのだろう。

「日本軍にはなぜ逆転がなかったのか。この問いに対する最も単純な答えは、物量の面で絶対的に劣っていたから、というものだろう。しかし、物量は逆転の必要条件であつても十分条件ではない。・・・物量の面で劣勢であっても、優勢な敵に勝った国の例は少数ながら存在する。・・日露戦争での日本、中国の国共内戦での紅軍、ベトナム戦争での北ベトナム。したがって、大東亜戦争時の日本軍はそうした例に見られる物量的劣勢を相殺する戦い方ができなかったということになる。・・・特攻作戦で散華した将兵の崇高さをいささかも貶めるつもりはないが、その作戦が統帥の外道であることは否定の仕様が無い。問題は、劣勢を挽回するための、あるいはその進行を少しでも遅らせるための戦い方として、特攻作戦しか思いつかず、それしか実行されなかったことである。それは、大東亜戦争の日本軍の戦略不在を象徴するものであった。・・・・ただし、逆転するためには、戦略の本質を理解しなければならない。誠実な努力や、周到な準備や、僥倖や、相手の好意だけに頼っていては、逆転はなしえない。」

こうした視点で逆転の戦略の本質を探っていく。有名なクラウゼヴィッツの戦略の中で戦略の実行側面として重要視されているのは「摩擦」という概念である。

「摩擦とは、現実の戦争と机上の戦争とをかなり一般的に区別するところの唯一の概念である。予測不能で偶然の自然現象や偶発事件が発生し、それを克服する技術が欠如していたり、あるいはそのために心理的に混乱するなどして、計画通りに実行できなくなることである。・・・・それと同時にこの「摩擦」という概念は、戦略実行の側面の重要性を暗示しているように思われる。・・・しばしば戦略はその実行と明確に区別したり、実行の側面がほとんど考慮されないままに戦略論が組み立てられた。」

確かに、戦略を策定出来る人が戦略を実行できる人とは限らない。それ以上に空理とも捉えられるような策を戦略と言い張る人が居るのも事実だろう。戦略と実行が分離されることはまったく無い。なぜならば戦略は時間軸の中で常に変化していかなければならない。現代の戦略論はこのような「摩擦」概念とともに複雑系などの概念を取り入れた動態的な戦略論の構築を目指しているといわれている。

「人間の主観(認識)を入れ込まない戦略論はありえないということである。・・人間の直感や認識能力であって、人間の主観を媒介しない一方的な客観的分析だけでは、戦略の創造とその実行を説明できないのである。」従って、戦略の命題の提起しているその前提は、「リーダーの世界観や直感」といった人間的現象と捉えている。そのうちのいくつかを紹介すると

「戦略は人である。戦略を洞察するのも、実行するのも人である。分析的戦略論は傍観者的である。・・リーダーシップの本質は、誰を選ぶか、誰の首を挿げ替えるかの判断を伴う人事である。指導者の手腕は、コンテクストを判断できる能力のみならず、部下の性格を判断できる能力にもある。つまり、人に対する感性である。」

「戦略は信頼である。戦略は、ソフト・パワーを基盤とする。われわれの戦略論のフレーム・ワークでは、伝統的な「資源」という概念よりも「パワー」という概念が使われるが、パワーはハード・パワーとソフト・パワーで構成される。前者は軍事力やテクノロジーを含む物理的資源を指し、後者は共有された価値観などソシャル・キャピタル(社会的関係資本)を代表とする、人間の関係性のなかで機能する不可視の資源である。それは調整された諸活動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会の特徴・・・」

「戦略は言葉(レトリック)である。言語能力は政治の基本である。そして、戦略も、時間軸を含んだ起承転結のレトリックで表現されることが重要である。・・・」

「戦略は本質洞察である。事実は目に見えるが、本質は目に見えない。データは事実であるが、戦略思考にはその背後にある真の意味やメカニズムを読む洞察力が要請される。・・優れたリーダーは状況一つひとつの独自性と具体的な違いをありのままに嗅ぎ分け、認識する能力があると同時に、より大きなテーマの中で細部を総合する能力がある。」

「戦略は賢慮である。・・知の総合としてのリーダーシップというコンテクストから、アリストテレスの知の概念を今日の言葉でとらえ直すとするならば、総合されるべきものは科学的知識としての理論的な「ノウ・ホワイ」、実践的なスキルとしての「ノウ・ハウ」、そして実現すべき価値(達成すべき目的)としての「ノウ・ホワット」にほかならない」

命題として提示されているものは、全てがリーダーの人間的側面と資質に帰結するといっていい。ハード・パワーが必要条件とすると、ソフト・パワーが十分条件となり始めて逆転が達成できる。大東亜戦争で逆転できなかった理由は当時の日本においてリーダーが不在だったということであるし、「失われた10年」もまたリーダーが不在だったということである。

しかし、リーダーは存在したが、「逆転を戦略的に思考出来る」リーダーが不在だったと理解するほうが妥当ではないか。または、戦略しかつくれない戦略家と戦略が描けない実行リーダーしか居なかったと言うべきか。安易なリーダー論をそろそろ排して「ソフト・パワー」を駆使できるリーダーこそが待望される時代である。( 正 )