「春朗」の年代 1779(安永8)〜1794(寛政6) |
この年代に見られる落款は、師姓を冠した「勝川春朗」「勝春朗」および単独の「春朗」。また「叢春朗」と天明5、6年ごろの「春朗改群馬亭」「群馬亭」も、この年代の雅号に数えられよう。師の雅号から「春」「朗」の2字を授けられ、細判役者絵をもって浮世絵界にデビューした北斎は、黄表紙、洒落本などの挿絵を相次いで発表。当初の師風の模倣から脱し、次第に独自性を発揮しつつある年代だ。 |
1779(安永8) | 20歳 | 勝川春朗の名で作品を発表し始める | |
黄表紙、洒落本が流行 | |||
1780(安永9) | 21歳 | ▽黄表紙「白井権八幡随長兵衛 驪比異塚」(作者名なし 勝川春朗画) | |
1781(天明1) | 22歳 | 「洒落本」「噺本」を初作 | |
本所回向院の大相撲が前代未聞の大繁昌 | |||
1785(天明5) | 26歳 | この頃、一時的に「群馬亭」の号を用いる | |
黄表紙「江戸生艶気樺焼」(山東京伝画作) | |||
1786(天明6) | 27歳 | ▽黄表紙「我家楽之鎌倉山」(作者名なし 群馬亭画) | |
洒落本「通言総まがき」(山東京伝画作) | |||
1790(寛政2) | 31歳 | ▽将棋本「駒組童観抄」(見返しに孟母断機の図を描く) | |
寛政改革(異学の禁、出版統制強化) | |||
山東京伝、蔦屋重三郎に手鎖、身上半減の刑 | |||
1792(寛政4) | 33歳 | 師・勝川春章が没する(12月8日 享年67) | |
天明から寛政、清長、歌麿ら美人画などで活躍 | |||
1793(寛政5) | 34歳 | ▽黄表紙「智恵次第箱根結」(春道草樹作 春朗画) | |
ロシヤ漂民・大黒屋幸太夫、将軍に謁見 | |||
1794(寛政6) | 35歳 | この頃、俵屋宗理を襲名するか | |
版元・蔦屋重三郎、写楽画を刊行(〜翌7年) |