「為一」の年代 1820(文政3)〜1833(天保4) |
還暦を迎えた文政3年、北斎は「為一」の号を用いるようになった。この号は、天保4年ごろまで使用されたが、この年代の前半には、引き続き絵手本の制作に力を注ぎ、また文政年間に至って、色紙サイズの摺物に多くの優れた作品を遺している。為一年代をもっとも特徴づけるものは、大判ほかの連作錦絵である。風景、花鳥、古典などを画題として、天保初年ごろから揃物を続々と出版している。 |
1820(文政3) | 61歳 | 「為一」落款の作品が見えはじめる
▽肉筆画「白拍子」(北斎戴斗改為一筆 印=葛し可)この頃か |
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亀戸天満宮で「鷽替」の神事が始めらる
北尾重政没(享年82) |
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1821(文政4) | 62歳 | 北斎の女子(四女阿猶か)没する(11月13日) | |
伊能忠敬「大日本沿海実測図」 | |||
1822(文政5) | 63歳 | 本年、長女阿美代と門人・柳川重信が離縁するという
▽料埋本「江戸流行料理通」2編(八百屋善四郎著 北斎改為一筆) |
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式亭三馬没(享年47) | |||
1823(文政6) | 64歳 | この頃から川柳の号に卍を用いる
▽絵手本「今様櫛きん雛形」(前北斎為一先生画図) |
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須原屋版「江戸切絵図」
大田南畝(幕臣・大田覃)没(享年75) |
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1824(文政7) | 65歳 | ▽絵手本「新形小紋帳」(前ほくさゐ為一筆) | |
鍬形けい斎没(享年64) | |||
1825(文政8) | 66歳 | 選句集「俳諷柳多留」85編に序文を寄せる | |
初代・歌川豊国没(享年57) | |||
1826(文政9) | 67歳 | ▽考証本「還魂紙料」(柳亭種彦作 為一模ほか) | |
1827(文政10) | 68歳 | この頃、中風を患うが自家製の薬で回復するという
▽肉筆画「歌占図」(文政十丁亥年正月二日筆始 北斎為一敬画) |
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小林一茶没(享年65) | |||
1828(文政11) | 69歳 | 後妻こと女が没する(6月5日)
▽絵手本「光悦正風 盆画独稽古」(月花永女著 為一筆) |
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シーボルト事件(国禁の地図を持ちだす)
酒井抱一没(姫路藩主忠以の弟)(享年68) |
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1829(文政12) | 70歳 | この頃、孫(柳川重信の子)の放蕩に苦しむという | |
「偐紫田舎源氏」初編(柳亭種彦作、歌川国貞画) | |||
1830(天保元) | 71歳 | 放蕩の孫を高崎から奥州へ連れて行かせるという | |
宿屋飯盛没(享年78) | |||
1831(天保2) | 72歳 | ▽横大判「富嶽三十六景」全46枚(前北斎為一筆ほか)この頃か
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寺門静軒「江戸繁昌記」 | |||
1832(天保3) | 73歳 | ▽横大判「琉球八景」全8枚(前北斎為一筆)この頃か | |
十返舎一九没(享年67) | |||
1833(天保4) | 74歳 | ▽絵本「唐詩選画本 五言律」(高井蘭山著 前北斎為一画) | |
▽縦大判「諸国瀧廻り」全8枚(前北斎為一筆) | |||
人情本「春色梅児誉美」初・二編(為永春水作) | |||
この頃から「天保の大飢饉」始まる |