徳川家康という名は4度目に決まった<雑学倶楽部>



徳川家康という名は4度目に決まった<雑学倶楽部>

その場がど~んともりあがる雑学の本
とにかく話をつなげたい雑学<第3章>

徳川家康は、天文11年(1542)12月26日、寅の刻(いまでいうと午前4時ごろ)に岡崎城内で生まれました。そのとき、父(松平広忠)は17歳、母於大は15歳でした。松平家に男子が生まれたことに松平家臣団は大喜び。だれもが顔を明るくしました。しかし、その男の子には過酷で非情な運命が待ち受けているわけですが、それはさておき、家康という名前は4回目の改名で決まったのです。

生まれたときの名前は竹千代。名づけ親は大浜称名寺という寺の住職です。その後、家康と改名するまでに2回も名を改めています。

 第1回目は弘治元年(1555)14歳の3月。元服(いまでいう成人式)した年で、松平二郎三郎元信と名乗りました。このときの名づけ親は今川義元で、自分の名前の一字「元」の字を与えています。義元としては成人したあとも、ずっと今川家の支配下に置こうという意を含んでの名づけだったのです。

次の改名は2年後の弘治三年(1557)5月から翌年の7月のあいだ、16歳か17歳のころで、松平蔵人元康と改めました。

 家康が17歳のころは、まだ今川氏の人質となっているころ。また、義元の要請で初めて合戦に出た年です。初陣でみごとな働きをし、自信を持った家康は、新たな決意を込めて元信から元康と改名したのです。

元信の「信」は今川の敵である織田信長の信に通じることから、義元への遠慮があって信の字を改めたといわれています。「康」の字をつけたのは、武将として高く評価されていた祖父の清康の「康」の字からとりました。

さらに、永禄6年(1563)、22歳のときに松平蔵人家康と改名。この年は信長と清洲同盟を結んだ年。つまり、今川氏ときっぱり手を切る意味もあって、義元からもらった「元」の字を捨てて家康としたのです。

この「家」の字は源義家の一字からとったといわれ、さらに伊東法師という者が「家用平康」(家を用って平らかに康し)という書経の句から家康という字を選んだとされています。このときは、まだ松平家康でした。

では、名字の「徳川」はいつ決まったのでしょう。松平家康が徳川家康になったのは、それから3年後の永禄9年(1566)12月です。父祖以来の目標だった三河を統一することができた年で、家康25歳のとき。この年、朝廷から従五位下、三河守に任じられました。この徳川への改姓で、天下取りに向け一段と飛躍しようと決意したのです。「徳川」は、祖先の住んでいた上野国(群馬県)新田郡世良田郷得川(徳川)からとったものです。

「講談社+α文庫」所収

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