日本のテレビ・ドキュメンタリー【丹羽美之】

日本のテレビ・ドキュメンタリー


書籍名 日本のテレビ・ドキュメンタリー
著者名 丹羽美之
出版社 東京大学出版会(288p)
発刊日 2020.06.19
希望小売価格 3,300円
書評日 2021.01.17
日本のテレビ・ドキュメンタリー

著者の丹羽美之は1974年生まれ。NHKに入り、ディレクターなどを経験し、現在は東京大学情報学環(文理融合の情報学)准教授。その世代の著者が日本のテレビの黎明期から60年間の歩みの中で制作されたテレビ・ドキュメンタリー番組と制作者の言葉を通して、番組で戦後日本の復興と近代化をどう記録してきたのかを明らかにし、加えてテレビ・ドキュメンタリーが新聞、雑誌、映画やラジオといった既存のメデイアとは違った形で独自の映像ジャーナリズムを切り開いていった状況を描いた一冊である。

本書の構成は、第一章では本書の原点ともなった、NHKアーカイブスなど、テレビ・アーカイブスの現状とその課題を語っている。第二章以降は、1957年にスタートしたテレビ・ドキュメンタリーの草分けであるNHKの「日本の素顔」とディレクターの吉田直哉、1962年日本テレビの「ノンフィクション劇場」を制作した牛山純一といった先駆者たちに始まり、TBSの萩本晴彦や村木良彦、東京12チャンネルの田原総一朗を中心とした1960年代後半から1970年代にかけて制作された実験的な番組に焦点を当ててその制作姿勢と時代を描いている。一方ローカル局のRKB毎日放送の木村栄文、山口放送の磯部恭子など幅広い作品を取り上げ、1990年代以降はフジテレビの「NONFIX」で活躍した是枝裕和や森達也などプロダクションやフリーランスによる番組制作方法の変化について考察している。そして、最後の章では、東日本大震災と原発事故でのテレビの役割について述べている。

こうした60年間に亘るテレビ・ドキュメンタリー番組を俯瞰しての著者の考察は具体的、且つ網羅的であり、これからの多様な議論のベースとしての起爆剤的価値が大きいと感じられるだけに、今後この領域での活発な議論が期待される。

著者はテレビ番組が人々の生活や文化に影響を及ぼしてきたにもかかわらず、今まで研究対象としてあまり取り上げられなかった理由を、制作側が「テレビ番組は一回放送すれば終わり」と考えていたことに加えて、過去の番組の保持が十分でなく、且つ、公開されていないことに起因すると指摘している。NHKアーカイブスが2003年にテレビ開局50年を記念してオープンし100万本の番組、800万項目のニュースを保存したものの、一部の番組を除いて非公開だった。ただ、学術研究に限り試行的に「アーカイブスを用いたテレビ・ドキュメンタリー史研究」が2009年から2011年にNHKと東大で共同研究が行われたことを契機として、著作権を含めた諸権利対応とともに、これらのライブラリーが単なる「保存庫」から「創造・発信源」に変化することがテレビ・アーカイブスの未来を作っていくとの著者の思いは強い。

本書では「日本の素顔」を社会派ドキュメンタリーの出発点として取り上げているが、私はこの番組を見ていたこともあって、この章は興味深く読んだ。制作者吉田直哉は1954年にNHKに入局。ラジオを3年間担当後「日本の素顔」のスタートともにテレビに移っている。「この番組は記録映画との訣別を目指してラジオの延長線上にデレビドキュメンタリーを構想した」という言葉が紹介されているように、吉田は劇場用記録映画とは結論を先取りした完了形の「説得映画」と定義し、一方、テレビ・ドキュメンタリーは「現在進行形」の思考過程を提示するという考え方に基づき、新たなドキュメンタリーの可能性を追求し多くの名作を残した。その「日本の素顔」の鋭い社会批判は戦後日本に残る課題を病理として描き出してきたが、経済成長とともに近代化・産業化がもたらす負の側面も次第に明らかになり、「日本の素顔」が担っていた近代啓蒙的な姿勢は敬遠されるようになったと著者は評価している。

次に1962年に日本テレビでスタートした「ノンフィクション劇場」を取り上げている。この番組を率いた牛山純一は日本テレビの一期生として入社して、報道部、政治担当記者を経て、1959年の「皇太子ご成婚」中継の責任者となった。牛山は他局が多用したヘリコプターによる空撮やフィルムインサートの映像を一切使わず、視聴者が一番見たいのは花嫁の表情と考えて、アップを多用した生中継で美智子妃の顔を追い続けた。この中継映像は他局のディレクター達からも高く評価されたと言う。牛山のこだわりは、制作者の署名性だった。「日本の素顔」は客観性を追求したが、「ノンフィクション劇場」は主観的、文学的なドキュメンタリーを目指した。それはタイトルの「ノンフィクション」と「劇場」という矛盾した言葉を組み合わせたところに牛山の意図が見えているというのもうなずける指摘だ。

しかし、1965年に牛山の転機が訪れる。「ベトナム海兵大隊戦記」という三回連続放送予定の番組が一回目の放送後に政府・自民党からの批判を受けて以降の放送は中止されるという騒動があった。当時はテレビ番組に対する、政治介入やスポンサー圧力による中止、自主規制が頻発していた。西側メディアとして初めて北ベトナムを取材したTBSの「ハノイ・田英夫の証言」(1967年)は放送後、偏向番組として政府から非難され、田英夫はニュースキャスターを追われたという記述に、田英夫追放劇のドタバタを思い出しながら読み進んだ。

こうした時代を振り返ってみるにつけ、現在のテレビが自由闊達な現状批判や大胆なチャレンジ精神を失ったのではないかという著者の指摘は重く感じる。

RKB毎日放送の木村栄文が制作した「苦海浄土(1970年)」でのドキュメンタリーにおける「演技」を取り上げている。「苦海浄土」は石牟礼道子による同名の公害問題告発本を映像化したものだが、木村はこのドキュメンタリーにあえて俳優の北林谷栄を起用した。石牟礼の想念の化身として盲目の旅芸人に扮した北林が患者たちや海を訪ね歩く。北林を本物の旅芸人と信じ込んだ患者は取材者やテレビカメラに対する態度と違って、自然な表情を見せて映像は作られていく。この挑戦は賛否両論を巻き起こし、ドキュメンタリーの意味が問われる作品になった。

最後に本書の中で東日本大震災についての報道や関連番組からテレビの役割を問い直している点に目を向けてみたい。震災発生直後から報道の中でテレビの速報性や同時性は十分に発揮され津波や原発事故の決定的瞬間をとらえた映像が大きなインパクトを持って提供された。著者はまた、震災後に多くのドキュメンタリーが作られ、持続的な調査報道に大きな力を発揮したと評価している。2011年12月31日に放送された福島中央テレビの「原発水素爆発・わたしたちはどう伝えたのかⅡ」という番組は、自らの震災報道に関する検証をした番組である。この福島中央テレビは福島第一原発の爆発映像を無人の情報カメラで捉えた唯一の局だった。その中に印象深いデータが紹介されている。爆発映像を見た福島中央テレビ幹部スタッフは爆発の4分後にローカル放送に放映、キー局である日本テレビは1時間14分後、政府が正式に第一原発の爆発を認めたのは5時間後のことだった。この時間差の中にテレビが持っている可能性とともに、メディアに携わる人達の報道姿勢が問われることを示していると思う。

1970年生まれの著者はテレビ・ドキュメンタリーを研究するために殆どの映像はアーカイブスを使って研究をした。また、それが可能になった最初の世代なのかもしれない。私を含め、団塊の世代はテレビと同時代的にテレビと接してきた。1953年2月にNHKが開局して日本のテレビ放送は開始されたが、当時近所の酒屋が店の奥の座敷にテレビを置いて近所の子供達や酒を飲んでいるオジサン達が一緒にテレビで野球中継などを見ていたことを思い出す。しかし、時を置かずに我が家の茶の間にもテレビが登場し食事をしながら一家でテレビを見る時代になった。例えば、日曜日の午後9時からの「事件記者」、9時半からは「日本の素顔」を見るというのが我が家のルーティンだった。

しかし、本書を読みながら、登場しているディレクター達の名前や業績は知識としてあるものの、1960年代後半からのテレビ・ドキュメンタリー番組のほとんどを視聴していない。高校生、大学生になってからは映画や音楽(ジャズ)にのめり込みテレビからは遠ざかっていたし、社会人になると仕事に追われ休日に家族との食事中にニュース番組や歌番組を見ていた程度。テレビの普及ともに成長した世代と言いながら、その黎明期だけが生活時間の中にテレビ番組があったと思う。著者の言う、テレビの歩みと戦後日本社会論という壮大なシナリオの中で、混迷と混乱の学生時代の日々、高度成長期の社会人としての多忙な日々を思い起こすと、その時代を描いたドキュメンタリー番組を客観的に視聴できる自信はない。(内池正名)

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