にっぽんセクシー歌謡史【馬飼野元宏】

にっぽんセクシー歌謡史


書籍名 にっぽんセクシー歌謡史
著者名 馬飼野元宏
出版社 リットーミュージック(592p)
発刊日 2021.05.21
希望小売価格 2,200円
書評日 2021.12.18
にっぽんセクシー歌謡史

奇書というか怪書というべきか。明治時代後期から始まった日本のレコード文化で性的な要素がどのように表現されてきたのかを語り尽くした600頁におよぶ大書である。「お色気・エロティシズム・セクシー」といった主観的なキーワードに振り回されることなく、楽曲がリリースされて受け入れられた時代背景とを合わせて俯瞰することで、その曲の持つ意味を再確認するという読み方が楽しい。また、歌謡曲がレコード・ラジオの「音」時代からテレビがメディアの主体になって「音と映像」へと表現形態が変化したが、本書で取り上げられている楽曲の半数は聴いたことが無いという私にとって、そうした曲を文字によって想像することはなかなか難しかったものの、自分が慣れ親しんだ楽曲については著者の独特な分析や考えを辿って行くことは楽しい読書であった。

本書はタイトルの通り「セクシー歌謡」について大正デモクラシーの時代から現代までを語るとともに、制作側の作曲家浜口庫之助、プロデューサー酒井政利の活動に焦点を当てて語り、「セクシー歌手トップ4の履歴書」と題して奥村チヨ、辺見マリ、山本リンダ、夏木マリのデビュー前を含め歌手として、また俳優としての活動経験を詳細に記述している。

本書の歌謡史を概略辿ってみると、第一次世界大戦後の好景気と大正デモクラシーによる自由な文化の風潮の中、澤文子の「アラ!失礼」(1928)という「エロ」らしき歌の登場を契機として、著者が「エロ歌謡」元年としている1930年には黒田進が歌う「エロ小唄」という身もふたもないタイトルの曲がリリースされている。これは「男側の勝手な妄想」から生まれた曲で、制作側も「エロ」を流行歌でどう表現するのかは未開発段階であり、「ニュアンス」を表現するといった一ひねりも無い直接的な歌だったようだ。

昭和初期から戦前にかけての時代は、渡辺はま子の囁くような歌唱で「忘れちゃいやよ」(1936)がヒット。彼女は武蔵野音大出身で音楽教師から歌手に転向しただけあって発声の技術も十分に発揮された初めての歌謡曲と言われている。一方、いわゆる「鶯芸者」と呼ばれた芸妓歌手による楽曲がリリースされていく。小唄勝太郎「島の娘」や美ち奴の「ああそれなのに」の中の歌詞「・・・あったりまえでしょう」などは、今なら「年間流行語大賞」になるような流行り方だった。しかし、これらの曲は内務省の検閲で「エロを満喫させる」として発禁となり、戦時体制になると多くの楽曲が「不謹慎歌謡」として販売も歌唱も禁止されていくという音楽活動の低迷時期を迎える。

戦後「鶯芸者」の流れは久保幸江の「トンコ節」(1951)西条八十作詞・古賀政男作曲が大ヒットで復活を果たす。それにしても私が4~5才の頃の歌謡曲だが、「ネエ!トンコトンコ」と歌っていたのを思い出す位であるから、ごく普通のはやり歌だったようにも思うのだが、この曲は1951年の自主規制のレコード製作倫理規定で放送禁止となっていると聞くと驚くばかり。

1950年代後半を「セクシー歌謡」の変革期とし、ハワイアンやラテンをベースとして洋楽トレンドの「ポップス」系や「ムード歌謡」の歌謡曲が登場してくる時代である。

「ポップス」系では、ガールズグループの先駆けとなったスリー・キャッツが星野哲郎・浜口庫之助の「黄色いサクランボ」で一世を風靡した。まさに「セクシー歌謡」の本丸である。

一方、「ムード歌謡」と呼ばれる「都会の大人の男女による恋の駆け引き」を歌った楽曲群のうちの一曲がフランク永井の低音と松尾和子のハスキーヴォイスで構成された「東京ナイトクラブ」(1959)。また、ハワイアンバンドだった和田弘とマヒナスターズが松尾和子と組んだ「誰よりも君を愛す」(1959)をヒットさせる。この系列で、松尾より低いキーのハスキーヴォイスだった青江三奈が「恍惚のブルース」(1966)でデビューし、「伊勢佐木町ブルース」(1968川内・鈴木)が大ヒットする。この曲は歌詞だけを読めば色っぽい表現はないし、むしろご当地ソングそのものである。ただ、冒頭のため息とサビのスキャットがエロティシズム全開のためNHK紅白でも冒頭のため息はカットされている。まさに言葉ではなく、歌い方だけで「エロ」を表しているという独特な曲である。

著者が孤高のお色気歌手とする、奥村チヨは1965年に「ごめんねジロー」でデビューした洋風イメージのシンガー。そして、「恋の奴隷」(1969,なかにし礼作詞、鈴木邦彦作曲)をリリースする。この曲はバンド・サウンドのビートの効いたボップスとアダルトな世界の歌詞を融合させて変革をもたらした。販売元の東芝ではこのタイトルには疑義が出されたと言うし、NHKでは放送コードの関係でこの楽曲を歌う事は出来なかった。辺見マリの「経験」も同様である。しかし、1970年代前半になるとTVを含めて「性的表現」を許容するようになった時代である。「8時だよ全員集合」で加藤茶の「ちょっとだけよ」等と言うセリフがゴールデンタイムで堂々と放映され子供までが真似をしていた時代。社会全体の性的表現の許容度が高まったというか、性的に緩んだ時代ともいえる。

山本リンダは「困っちゃうな」(1966)でデビューしたがヒットに恵まれなかった。キャニオンレコードに移籍した1972年に阿久悠作詞、都倉俊一作曲の「どうにも止まらない」でカンバックする。この復活の衝撃を三つの観点で説明している。それは、「イメージチェンジ(変身)」とステージ上を激しく動き回る「ボディーアクション」、そして「歌詞に込められた女性上位」としている。「女性上位」とは、この曲の作詞家である阿久悠が描き出した女性観であり、女性側が男を選ぶという構図である。ウーマンリブの波及や女性社会参画の時代を象徴した歌詞であった。

こう考えると、音楽が文化を引っ張っていったという見方もあれば、時代の文化に合わせて売れる歌謡曲・ポップスを制作して行ったという見方の双方が浮かび上がってくる。

1960年代半から1970年代半における象徴的な変化を、「奥村チヨ・恋の奴隷=男にとって都合のよい世界観」から「辺見マリ・経験=愛していないなら口づけはやめてという女性の平等な意志の表現」そして「山本リンダ・どうにも止まらない=女が男を選ぶ女性上位」と説明する。

この時期はもう一つのインパクトのある作品がリリースされる。山口百恵の「ひと夏の経験」(1974)である。この楽曲に対して、婦人運動の先駆けである市川房江などがNHKに対して「歌謡番組でも女性を男性の従属物のように考えている歌などは使わないでください。例えば、山口百恵の『ひと夏の経験』、西川峰子の『あなたにあげる』 などの歌詞は許せない」と申し入れたという。山口百恵は自書の「蒼い時」で当時のことをこう語っている。

「ほとんどのインタビューでは、薄笑いを浮かべながら上目遣いで私を見て聞くのだった。『女の子の一番大切なものって何ですか』 。私の困惑する様を見たいのか・・・私は全て『まごころ』 という一言で押し通した」時に、山口百恵15才の時である。

そして、1979年にはピンクレデイーが土居甫の派手な振り付けで「ペッパー警部」でデビューする。大人から見れば「下品」な振り付けも、子供達から見れば「面白い」振り付けだったということか。このあたりまでが私の体感的歌謡史の年限である。

本書でとりあげられている多くのセクシー歌謡曲は歌謡史の名曲として生き残り、それらを歌ってきた歌手達も歌謡史にその名を残している。その理由をこう語っている。

「特に女性歌手の性表現が存続してきた真の理由は,制作陣、作家達、そして何より歌い手たちの歌唱技巧と『覚悟』が有っての結果である。歌謡史の裏街道的扱いを受けがちなジャンルでありながらも『本物は必ず生き残る』 のだ」

こうして時代を辿っていくと、桑田佳祐がデビューして「勝手にシンドバット」「C調言葉にご用心」など。語呂合わせのような刺激の強い歌詞の楽曲をどんどんリリースしていった。能動的でおおらかな性愛表現をコミカルに歌っていることから、桑田の作品群が女性蔑視やセクハラ的と言われたことはない。「セクシー歌謡曲」の世界から見ると異端であると気付かされる。(内池正名)

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