ニュルンベルク・インタビュー【レオン・ゴールデンソーン】

ニュルンベルク・インタビュー


書籍名 ニュルンベルク・インタビュー
著者名 レオン・ゴールデンソーン
出版社 河出書房新社(上376 p・下368 p)
発刊日 2005.11.22
希望小売価格 上下共 2520円(税込み)
書評日等 -
ニュルンベルク・インタビュー

ニュルンベルク裁判の19名の被告と12名の証人に対する、アメリカ人医師による面談記録である。彼、ゴールデンソーはニュルンベルク収容所付の精神分析医として、被告・証人の精神的問題だけでなく肉体的問題も常に把握することを職務としていた。
1911年ニューヨークで生まれ、オハイオ大学で文学士号をジョージ・ワシントン大学で医学博士号を取得し、第二次大戦の終戦時、陸軍少佐としてニュルンベルク陸軍病院に派遣され、収容所付きの精神分析医に就任している。

インタビューは各独房で実施され、家族状況や育った環境などを聴き取りながら、大戦中の職務、反ユダヤ主義に対する考え方などを緻密に確認している。裁判と違い多少気楽な話をしながらも、被告・証人達の発言は既に死亡しているヒトラーやヒムラー、ゲッペルスなどに責任の源を指摘するものが殆どであるし、自分は反ユダヤ主義ではなかったと発言する者が多いことに驚く。

当時、この裁判において「ナチの動機はなんだったのか」という解明への期待とともに、「心理学の宝物」とさえ言われた第三帝国の責任者たちの心情についての興味も高かったといわれている。このインタビューを基にゴールデンソーは自ら出版を意図していたようだが、1961年に50歳の若さで冠状動脈性心臓発作を起こし死去したことから、彼の手で出版かなわぬまま、未亡人によってノート、タイプ打ちのインタビュー、講義記録などの資料は自宅に保管され続けた。時を経てこれらの資料は「The Estate of Leon N. Goldensohn」として2004年に米国で出版され、本書はその翻訳である。

過去、ニュルンベルク裁判は多く語られてきた。その中で、本書の特徴は独房に収容されていた被告・証人たちの生の声であるとともに、精神科医としてのゴールデンソーの見た被告・証人たちの精神状態を把握した記録であるというところだろう。

ニュルンベルク国際軍事法廷は四つの訴因で被告を起訴している。第一訴因は「条約に定義された平和にたいする罪、戦争犯罪、人道にたいする罪を犯そうとする共同の計画ないし謀議の案出または遂行に指導者、立案者、扇動者、共謀者として関与した」というものである。この「謀議」というある種曖昧な概念によって被告側にも反論の余地が生じたといわれる。

インタビューにおいても、多くの被告たちが、第三帝国ははなはだしく混乱しており、政権の行政統治機構は行き当たりばったりで一貫性に欠けていた。そのため、何も知らなかったと弁解し、ナチ政権がきわめて縦割りされたシステムであった為に限られた情報しかなく、長期にわたる謀議などには加担していなかったと主張している。ナチの指導原理として、全ての権限は総統たるヒトラーに集約されていたのも事実ではあるが、しかるべき立場にいた被告達のそうした発言からはナチのリーダー群の矜持の高さをまったく感じられないのも事実である。

カイテル国防軍最高司令部長官・陸軍元帥の発言。「私にはなんの権限もなかった。陸軍元帥とは名ばかりでだった。・・ヒトラーの命令を遂行したにすぎない。・・・ヒトラーのもっとも重要な理念のひとつは、閣僚と役人はそれぞれ自分の仕事に専念すべしというものだった。・・ヒトラーは政治的理念を追求するとなると恐ろしく残酷になれた一方で、個人の感情や一人ひとりの人生については自分の身に引き付けて理解することが出来た。しかし、私は戦時中に残虐行為があったことを知らなかった。ユダヤ人の迫害や虐殺といった言葉を聞いた覚えもない。」
この発言はまさに典型的なもので、空しささえ感じてしまう。

ゲーリング空軍総司令官・帝国議会議長はこの裁判で絞首刑を宣告され、1946年10月15日、絞首刑予定の二時間前に独房内で自殺した。彼の発言。「その件(アウシュヴィッツ収容所)については、なにも知らなかった。ヘースが法廷で言っているように秘密事項だった。ほとんど信じがたい。死者の数が膨大だ。ヒトラーがそれを知っていたとは信じられない。・・・アイヒマンという名前はここに来て初めて聞いた。・・・当時(1933年)は共産主義者など、国家社会主義党の敵を対象とした強制収容所を私が設立したことは率直に認めよう。しかし、人を殺したり、絶滅収容所として使ったりするつもりは絶対になかった」。

また、ゲーリングの民族観はきわめて特徴的である。ヨーロッパ人のある種の共通している感覚ではないかとも思われる。それは対アジア人観を強烈に表現しているし、ユダヤ人感もそうした原点があるのだろう。

「ロシア人は原始的な民族だ。将軍の軍服を着たロシアのがさつな田舎者が、いまや私を裁こうというのだから、皮肉なものだ。ロシア人は、どれほど教養があろうと、野蛮なアジア人であることに変わりはない」

こうした発言に接するとゲーリングの自殺の原因は訴因に対して責任を感じたというより、彼の民族観に基づき、劣等民族であるロシア人に裁かれることが彼のプライドとして耐えられなかったのではいか。それは逆に考えるとアーリア人の絶対優位の民族観であり、そんな彼らと日独伊の三国同盟を進めた松岡洋右や日本の指導者の盲目的戦略行動は滑稽にさえ写る。

シュトライヒャー反ユダヤ主義的新聞「デア・シュルテュルマー」の創刊者兼編集主幹、1946年10月16日絞首刑に処せられる。ゴールデンソーの観察は冷静だ。「私の印象では、シュトライヒャーは標準的な知性に欠け、全体としては無学な人間だ。病的なまでに反ユダヤ主義とりつかれているが、それは彼の性的葛藤のはけ口になっているらしい。・・・彼は、ユダヤ人であるキリストはユダヤ人娼婦だった母親から生れたのだといった。そして、処女懐胎説など誰が信じる物かと言いながら、笑みを浮かべたり目をすがめたりした。・・・・」

そのシュトライヒャーがこう発言する。「カイテルやヨードルといった軍事指導者たちに関する限り、大量虐殺などの残虐行為とは無関係だ。実際、誰も関与していなかったし、そんなことがドイツで行われているとも思っていなかった。・・私はいままでアウシュヴィッツをこの裁判が始まるまで知らなかったのだ。・・」

オーレンドルフ国家保安本部・保安諜報部長1951年6月8日絞首刑(44歳)。そのやりとりは読んでいても気が重い。それはある種、崩壊した精神としか言いようがない。「彼(オーレンドルフ)は疲れきった悪霊のように見え、良心---そう呼べるものがあるとしても----の呵責などまったく感じていない。感情の欠如が見られるが、臨床的に特異な点はない。「なぜ私を責めるのだ。私はなにもしていない」という態度である。「ユダヤ人たちは立って並び、軍隊で行われているとおりのやり方で射殺された。私は残虐行為が避けられるように配慮した」。年齢の制限はあったのか。「年齢の制限はなかった」。彼は一瞬考え、抑揚のない声で言った。「ありがたいことに、子どもは少ししか射殺されなかった」。何人だったか。「わからない。1000人も居なかっただろう」」

第三帝国のほとんどのリーダー達が持つ認識、「全ての出発点は、ヴェルサイユ条約にあり、ドイツが国家としての威厳を回復するための行動に出ざるをえなくなったという事実にある。」というものはリーダーたる彼らのみならず、全てのドイツ人に共通の思いだろう。第一次大戦後のドイツをとことん疲弊させるというヨーロッパ各国間の基本戦略は結果として第二次大戦の源になったという史観は一つの真実である。それだけに、ナチの台頭から第二次大戦への道のりはヒトラーという異形のリーダーのもと歯止めなく進んでいったといえる。

このニュルンベルグ裁判と東京裁判の違いについて本書を読んでふと感じたのは、この裁判の被告19名の終戦時の平均年齢54歳と東京裁判のA級戦犯27名の平均年齢62歳という違いである。仮に、その国のリーダー達が裁判の被告であったとすれば、この年齢の差はけして偶然ではなく、日本対ドイツ、または西欧対アジア文化の違いというか、社会構造の違いとして、今なお続いている根元的ともいえる差異のように思えてならない。(正)

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