書籍名 | 歴代首相の言語力を診断する |
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著者名 | 東 照二 |
出版社 | 研究社(216P) |
発刊日 | 2002.7 |
希望小売価格 | 1,470円(税込み) |
書評日等 | - |
東条英機から小泉純一郎まで歴代41名の首相の演説・答弁の特性を分析している。マックス・ウエーバーによると、政治家の資質とは「責任感・情熱・洞察力」の三点と言っているが、加えてコミュニケーション能力、すなわち「言語力」が必要というのが著者の主張。
政治家の政策・思想に関する本は多く出版されている。一方、言語学の観点から政治家の使う言葉を分析したものは皆無だった。言語力が必要なのは政治家に限らず全ての社会人に要求されているものであるところにこの手の本が出版される素地があるのだろう。
一方、小泉という新しいコミュニケーションのとりかたをする首相の出現がこうした分析をする価値を生み出したと思う。仮に、小泉以前までの首相の言語力分析ではここまで面白い結果が出なかったと確信できる。それほど、過去の首相に比較して小泉の言語力というか言語戦略は特異性があるということだ。
歴代41名の首相の施政方針演説や予算委員会の答弁をベースにして「ことば」からその時代がリーダーに要求しているものをどう反映しているかを分析している。すなわち、「・・社会言語学の観点から大まかな流れとして「力」( power ) から「連帯」( solidarity) へのシフトがこの六十年間におこりつつあるのではないかという仮説を立てて、歴代首相のことばを通時的に分析してみた。」という本書は、ことばに関する最近の社会言語学的成果や動向もわかり易く紹介されており、自分自身の日ごろの発言を省みても大いに勉強になった。
まず、話しことばを観察しながら働きを調べようという最近盛んな研究分野の「会話分析」が紹介されている。そこでは「ことば」の特徴を「ことばは本質的にあいまいなものである」「私たちは話されたことばの意味を推理しなければならない」「推理した意味は、暫定的なものではなく確定的なものとなる」「推理は瞬間的になされる」という四点にまとめられている。こうした特性こそ、ことばの道具としての効率性を示すものであると同時に危険性を示すものであるということだ。
その一つの例として、ことばの「お守り的使用(思想の科学の中で鶴見俊輔が名づけた)」を多用する為政者が出現するリスクを指摘している。大戦中における、東条をはじめとした首相の演説には「国体、翼賛、八紘一宇」といった実態・概念ともに不明のことばが氾濫した。一方、そのあいまいさによって言語の持つ指示的機能に加え情緒的機能を活用した「言語戦略」が存在することも示している。この例としては池田首相の浅沼稲次郎追悼演説をあげている。これは国会の演説としては型破りの構成で、浅沼を称えた詩を織り交ぜ追悼することで議場がシーンとしてしまう効果は絶大だったと言われている。
言語文化学の視点では、高コンテキスト文化と低コンテキスト文化という分類が紹介されている。高コンテキスト文化では、人々が多くの背景情報を共有しており、直接的な言語によるコミュニケーションはそれほど重きをおかれない。むしろ暗黙の了解、以心伝心、察し、遠まわし、といった間接的な話し方に価値を置く社会。かたや、低コンテキスト文化の社会でははっきりとことばに出して表現する、直接的、明快な話し方といったものに価値がおかれる社会となる。二つの言語文化は日米文化の差そのものだ。たしかに、日本では話しが上手くなくても政治家として務まるというのが一般的である。言語明瞭・意味不明と揶揄された竹下やあまりしゃべることすらしなかった鈴木(善)などが高コンテキスト文化・日本の象徴的首相だった。
41名の所信表明演説を字数でカウントすると平均5600字。一番短い所信表明演説を行ったのは岸で、なんと877字という短さである。原稿用紙にしてたった二枚半という長さは端的にものを言うといった次元の問題でなく、岸が所信表明演説そのものに重要さを置いていなかったと言っても良さそうである。また、文章あたりの文節の数は話し言葉としての解りやすさの指標になると思うが、平均文節が一番多かったのは東条英機(24)、一番少なかったのは小泉純一郎(12)という:結果である。暴言・失言と強弁について東条と小泉の相似性を語る政治評論家は多いが、言語戦略としてはもっとも対極にある首相だといえる。もっとも小泉の演説や答弁については東条との比較というよりも、歴代首相と比較して際立った特異性がいくつかあると指摘している。
もう一点、分析のポイントは、「・・の」と「・・こと」の頻度比較である。日本語の特性として動詞を名詞のように変化させて使用することが多いが、「・・の」と「・・こと」の使い分けによって話し手と聞き手の距離感の違いが出たり、感覚的か抽象的・形式的かの違いが出るといわれている。抽象的といわれている「・・こと」の頻度が一番高いのが東條、低いのが小泉。細川はメディア宰相などといわれプロンプターを利用したりして演説というかプレゼンテーションに力をいれた首相であるが戦後の首相の中で一文章の中の文節数が一番多く、抽象的な言い方となる「・・こと」の使用頻度が一番高かったと指摘されて見ると、細川の政治姿勢はともかく、発言について簡明であったという印象が薄いことに気づく。
文末表現の比較もなかなか面白い。東條、小磯、鈴木(貫)といった歴代戦中首相の「・・あります」という文末表現は91%で、極めてフォーマルな演説口調に終始している。以降時代とともにその使用頻度は落ちてきて小泉では27%となる。もっともこの「・・あります」は文末表現の内47%の使用率でダントツの頻度であるのは所信表明演説のフォーマルさの表れと言える。さて、この「・・あります」と同じ意味を持つことばとして「・・です」という表現があるが歴代のほとんどの首相が使っていない。唯一、小泉だけがこの「・・です」という単純明快な文末表現を使っており、文末表現の14%がこの「・・です」というのは小泉の演説の特異性といえる。小泉演説の第二の特徴として「・・します」という表現がある。これは話し手の意思をストレートに表す言い方であるが過去の首相のこの表現使用率は極めて小さい言い回しで、小泉の「・・します」使用率は18%と高く彼の際立った特徴となっている。
社会言語学では話し手と聞き手のステージを三つに分けている。このステージ毎に代表される首相と文末表現の形を見ている。
力の差が歴然としてあり、心理的距離感も遠い状態 : 東条英機 「・・・あります」。
力の差が歴然としてあるが、親しみを感じる状態 : 田中角栄 「・・・・おります」。
力の差は無くなったとみなし、親しみを感じる状態 : 小泉純一郎 「・・・・です」。
所詮、言葉の選択とは話し手と聞き手の相対的なPositionとして話し手がどう認識しているのかにかかっているのだが、普段の我々の会話ではお互いの心理状態や関係を判断しながら言い回しを変えたり、謙譲語・尊敬語を使い分けている。本書で取り上げられている、演説というある種一方的に話していく状況では、話し手自身が聞き手との関係をどういった位置取りにしたいのかという考えや姿勢によって全て決してしまうところにこうした分析の価値が出るのだと思う。そして、特に仕事の場においても、日本が徐々に低コンテキスト文化に変化しつつあるという実感は年を追って強くなっている。(正)
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