書籍名 | 列島創世記:日本の歴史 |
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著者名 | 松本武彦 |
出版社 | 小学館(370p) |
発刊日 | 2007.11.9 |
希望小売価格 | 1995円(税込み) |
書評日等 | - |
記紀に代表される文献資料をまったく引用せずに、日本列島の旧石器時代から5世紀の古墳時代までの歴史を記述することは可能なのだろうか。旧石器から縄文までについてはいままでの歴史書も当然のことながら物質資料だけに基づいて作られてきた。しかし、弥生から古墳時代までをも網羅するとなるとこうしたアプローチは新しい試みである。
日本列島史を語るとき、物質資料だけに頼る「旧石器から縄文まで」の方法論と、物質資料と文字記録を併用したり、文字記録の足りない部分を物質資料で補ったりする「弥生から古墳時代」の方法論には明らかに違いがあった。本書で、一貫して物質資料の分析と解釈で一人の人間が四万年を描くのは「能力の限界ぎりぎりに奮迅する大仕事」と著者自らが言っているのももっともだと思う。そうした仕事に当っての考え方を三つ挙げている。
「歴史科学の再生として、歴史を物語ではなく、過去の人々の歩みから現代を見据えて、未来を客観的に展望するための社会科学とする。・・人口物や行動や社会の本質を心の科学(認知科学)によって見極め、その変化のメカニズムを分析する認知考古学の成果を取り入れる」
「環境との対立と妥協を繰り返しながら「ロング・ワインディング・ロード」をこつこつ歩んできた旅人としての、人間の軌跡をたどる」
「日本という枠組みを固定的に連続したものととらえない。・・・国家の歴史を超えた人類史のなかの日本列島史を綴ってみたい」
という三点である。
旧石器、縄文前期、縄文後期、弥生前期、弥生後期、古墳時代と区分する考え方は類書と比較して特別な見方ではない。各時代区分でポイントとなるキーワードを摘出し、その時代を記述するという形を取っている。例えば、旧石器時代を「森と草原の狩人」として、集落のあり方、石器の伝播と人の移動、石器の形式学的な変化などを主な視点として記述している。特に、著者の物質資料に対する立ち位置が判りやすいのは、長野県神子柴遺跡から出土した石やりをどう理解するかという点ではっきりと示される。この石器は全長25cmを超える大型で精緻な左右対称をしているものであり、機能的合理性を道具に求めてきた旧石器時代の最後の時期に作られたものと考えられている。教科書にも良く出てくる程、素晴らしい石器である。
「・・・大きく美しく、ひたすら見た目を追求した大型の石やりは、かなりの石材と手数と時間をつぎ込んだわりに、薄くて壊れやすいという機能的欠点を持ち、経済的には不合理な人工物だ。・・・つまり、経済的な実質価値よりも、認知上の付加価値(ほら見ろといった誇示)やメッセージ性に満ちた品物なのである。・・・」
生きるための道具に創意・工夫を続けてきたヒトが旧石器時代という長い時間軸で心の変化の結果として不合理な人工物を作り上げた証左がこの石やりかと思うと、写真からとはいえ認知考古学の成果を体感する。私がすごいと思っていた精緻な石器は「経済的に不合理な人工物」であるという定義は新鮮である。
縄文時代前半は、定住化、人口密度と食料確保戦略、縄文土器における「凝り」の発生。縄文時代後半は、環状集落と環状列石、非日常世界の独立、身体の人工的な加工。弥生時代前半は、ムラの序列形成メカニズム、継承された縄文の伝統、温暖化による資源増加。弥生時代後半は、鉄と社会構造の変化、同列的なムラから階層的クニへ、青銅器の分布変化。そして、古墳時代は、古墳の創出と墳墓の威信競争、文字以前の文化伝達、モニュメントから文字へ。こうした時代分類や認知考古学の視点とキーワードに基づいて日本列島史を記述している。まさに、方法論としては見事なまでに一貫している。
カバーしている約4万年間とは温暖化と寒冷化が環境を変化させたことにより、人口の動態が変わり、物質文化の地域色などが作り出されてきた時代である。気候の変動の波に起因する環境変化によって、人々は生活を変化させざるを得なかったものの、その変化は同一のパターンの繰返しではないことも残された物質資料が示している。
「ヒトは記憶された言葉などによって、世代を超えて知を蓄積し、過去の繰返しでない行動をとる能力を持つ」
ヒトの知の蓄積が変化対応力を向上させ、より複雑な文化形成を行ってきたわけだ。言葉や文字がその世代間伝達に大きく寄与したことも事実であり、弥生・古墳時代までをも全て物質資料だけて説明しきることの難しさもそこから必然的に見えている。特に古墳時代については、物質資料そのものが文化(天皇制)によって現在も発掘は制限されているし、当時は国内外においてより複雑な文化に変貌しつつある時代であったことを考えると、古墳時代こそ、物質資料と文献資料を正しく組み合わせて時代を読むことが求められているのではないかと思う。本書の方針に従って読み込んでいっても、読む側が記紀についても正誤はともかくそれなりの知識を持っているのでもう少し踏み込んだ表現を期待してしまうのではないか。
また、全体としても表現で練られていない部分もあり、もっと面白く、読みやすくすべきとの評価もあると思う。個人的には2000年に発刊された講談社の「日本の歴史」の方が読みやすいと思う。しかし、方法論としての新しい挑戦を考慮し、今後に期待するところ大である。特に列島の旧石器時代については、あの捏造事件発覚でいとも簡単に定説は崩れ去り、日本の旧石器時代を対象とした考古学の科学としての脆弱性も問われたわけだが、新たなスタートのひとつの形として本書は評価されると考える。また、認識考古学や型式学の観点からは天皇陵と呼ばれる古墳群の学術的調査の要請もますます高まっていくのも必然だろう。
「弥生・古墳時代にかけての文献資料を使った歴史叙述では明確にし難かった。文字記録は多くを語ってくれるが、逆にその雄弁さに覆い隠されて見えにくくなっている歴史の本質もある。一方、ヒューマン・サイエンスに根ざした考古学の確立もまた重要である。歴史学と考古学はともに過去を扱うだけの学問ではない。現代の様々な矛盾(国家・民族・戦争・環境破壊)などの問題に立ち向かい、未来の姿を展望するという共通の使命がある」
日本の歴史学と考古学は本当に「未来を展望する」という使命を果たしていけるのかと思いつつ、このような宣言を心強く感じるとともに、期待もするところである。(正)
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