書籍名 | 動的平衡 |
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著者名 | 福岡伸一 |
出版社 | 木楽社(256p) |
発刊日 | 2009.02.25 |
希望小売価格 | 1,680円 |
書評日等 | - |
サントリー学芸賞を受け、60万部のベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)の著者、福岡伸一の新刊である。サブタイトルは「生命はなぜそこに宿るのか」。『生物と無生物のあいだ』は、DNAの構造をめぐって分子生物学がどんな発見をしてきたか、科学者の人間くさいエピソードをちりばめて、理系は苦手というシロウトにも分かりやすい本だった。現代科学の最先端で何が起こっているか、次々に謎が解かれるミステリーみたいに読者を楽しませながら、生命とは何なのかを考えさせてくれる語り口のうまさに酔わされた。
『動的平衡』でもそのことは変わらない。ただ、『生物と無生物のあいだ』が分子生物学の発見史という時間軸に沿って書かれていたのに対し、この本は、「食べ物」「ダイエット」「病気(ウィルス)」といった個別のテーマ、いわば横軸に沿って「生命とは何か」という問いが変奏されている。
読んでいていちばん面白かったのは、人間の「記憶」と「見ること(錯覚)」をめぐる話題だった。
僕たちの記憶はどこに蓄積されているのか? わずか30年前まで、科学者は脳内の特定の分子に記憶が蓄積されているに違いないと考え、「記憶物質」を発見しようとやっきになっていた。
ところがその後の研究から、脳のなかにはビデオテープやICチップのような物質は存在しないことが明らかになった。僕たちが食物を食べると、食物のなかに含まれる分子はあっという間に身体を構成する細胞の一部になり、また次の瞬間には身体の外に出ていってしまう。
人間の身体を形づくっている分子は次々に代謝され、新しい分子と入れ替わっている。脳細胞も同じだ。だから、ある特定の分子に記憶が蓄積されることなどありえない。福岡によれば、「それは一度建設された建造物がずっとそこに立ち続けているようなものではない」。細胞をつくっている分子は高速度で代謝していて、そういう「分子の流れこそが生きていること」なのだ(それを彼は「動的平衡」と呼ぶ)。
「人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、『想起した瞬間に作り出されている何ものか』なのである。/……私たちが鮮烈に覚えている若い頃の記憶とは、何度も想起したことがある記憶のことである。あなたが何度もそれを思い出し、その都度いとおしみ、同時に改変してきた何かのことなのである」
その記憶はどこにあるのか。それは細胞にあるのではなく細胞と細胞の間、神経細胞が互いに結合してつくる神経回路の「形」(それは細胞の分子が代謝しても保持される)にあるのではないか、というのが福岡の答えだ。
「神経回路は、経験、条件づけ、学習、その他さまざまな刺激と応答の結果として形成される。回路のどこかに刺激が入ってくると、その回路に電気的・化学的な信号が伝わる。信号が繰り返し、回路を流れると、回路はその都度強化される。/回路のどこかに刺激が入力される。それは懐かしい匂いかもしれない。あるいは メロディかもしれない。……刺激はその回路を活動電位の波となって伝わり、順番に神経細胞に明かりをともす。ずっと忘れていたにもかかわらず、回路の形はかつて作られた時と同じ星座となってほの暗い脳内に青白い光をほんの一瞬、発する」
こういう部分が福岡の本をベストセラーにしたんだろうな。専門的な話を分かりやすく解説し(本当に分かるかはともかく)、見事な比喩で脳内にイメージを定着させる。かつて昆虫少年だった福岡が、少年の心をもったまま科学の最先端にいることが、こういう文章を生み出しているんだろう。
ところで福岡はこの本で、「人面犬」や「人面昆虫」の例を引いて、人の脳が「錯覚を生む」メカニズムについて触れている。これも神経細胞の回路が関係しているらしいのだが、科学的な説明ははぶいて結論めいた部分を紹介してみる。
「人間の脳は、ランダムなものの中にも何らかのパターンを見つけ出さずにはいられない」
「これら(注・人面昆虫など)は人間の脳が勝手にパターンをつくっている例証である。/つまり、私たちが今、この目で見ている世界はありのままの自然ではなく、加工され、デフォルメされているものなのだ。デフォルメしているのは脳の特殊な操作である」
つまり僕たちは、「そこにあるもの」を見ているのではなく、「見たいと欲するもの」を見ているのだ。この部分を読んで僕は、ちょっと前に読んだもう一冊の刺激的な本を思い出した。大井玄の『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書)である。
大井玄は臨床医として、痴呆状態にある多くの老人を見てきた(大井は、問題があるとして「認知症」という言葉を使わない)。そういう老人たちは認知能力が低下して、しばしば家族が分からなくなったり、いまどこにいるかが分からなくなったり、幻覚、夜間せん妄、被害妄想、攻撃的人格変化などの症状を起こす。それはどういうことなのか、と大井は考える。
認知能力や記憶が低下した痴呆老人は、誰もが心に大きな不安や恐怖を抱えている。いま、自分はどこにいるのか、隣にいるのが誰なのかに確信が持てない。そんな彼らに接するとき大切なのは、「断じて『理解する』ことではありません。むしろ積極的に理解はせず、やさしい声音で、うなずいてあげる」、つまり「情動的コミュニケーション」で不安を和らげてあげることだという。
大井は、病院に入院して医師と看護師が目の前にいるのに、「自分の家にいる」「(看護師を)自分の娘だ」と言いはる患者のケースを例に引いて、「その人の『意図するイメージ』が、現実の環境を覆いつくして自分の環境世界を創りあげている状態」と解釈している。この痴呆老人は、なぜ病院を自宅、看護師を娘と言い張るのか。そうすることが彼にとって苦痛や不安がいちばん少ない状態だからだ、と大井は言う。
「ヒトはもっとも苦痛の少ない状態を選ぶ、という最小苦痛の原則がここでも働いていることです。/……彼らがそれ(注・苦痛の程度)を知るとすれば、『感情において自分をしっかりと確認させてくれる』、情動という深層心理領域においてだと考えられます。つまり彼らは周囲の他者との関係において、実質が曖昧でも、形式が整うならば情動的苦痛は少ないように見える」
また痴呆老人は往々にして、若いころの記憶の世界に帰ることがある。それも「もっとも苦痛の少ない状態」であることからくる。
「その言動は、彼女が若く愉しかった時代の人格(回帰人格)に戻っていることを思わせます。つまり回帰人格であるかぎり、彼女は自分の行動の意味が理解でき、 そしてその意味のつながりをたどって生活をつづけるのです。/彼女にとって、『実年齢』にともなう人格には、記憶や時・場所の見当識の喪失からくる耐えがたい不安が付きまといます。『実年齢人格』を離れることで、不安を回避しようとする強い心理作用が働いても、まったく不思議ではありません。若い頃の記憶 を基にして、その時分の人格が仮構する世界を生きていけるのでしょう」
だから、と大井は書いている。「彼らにとって『現実』は『事物』ではなく『意味』であることです」。ここでも彼らは「見ているものの代わりに、見たいと思っているものを見る」のだ。
「認知心理学が見出した根本原則は、知覚は期待によってあやつられているということです。そこで不安なく暮らしていけるなら、世界がどう見えていようと、本人がそうだと思えさえすればかまいません。記憶力の喪失により現在とのつながりが失われている場合、過去の世界が現在の『私』にとっては住みやすいのです」
福岡も言うように、人は誰も「見ているもの」ではなく「見たいもの」を見ている。認知能力が低下し、「見ているもの」と「見たいもの」の誤差が大きくなった場合に、人はそれを痴呆症と呼ぶ。あくまで誤差の程度の問題であり、ということは病気と健康、正常と異常の間に明確な線を引くことはむずかしい。それを大井はこう表現している。「われわれは皆、程度の異なる『痴呆』であるからです」。
であれば、僕たちが今、現に「見ているもの」が、自分のなかのどういう「見たいもの」に突き動かされているのかに自覚的でないと、とんでもない間違いを犯す可能性を秘めているということだ。人間とは、どうやらそういう生き物であるらしい。
医療の現場にある大井も、分子生物学の先端にいる福岡も、その底に共通して流れているのは「人間とは何だろう」という疑問と好奇心だ。その問いを手放さないことが、この2冊を科学の専門書ではなく、知的スリルにあふれた、良い意味での読み物にしている。(雄)
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