忘れられる過去【荒川洋治】

忘れられる過去

「言葉の力」を再認識


書籍名 忘れられる過去
著者名 荒川洋治
出版社 みすず書房(269p)
発刊日 2003.7.25
希望小売価格 2600円
書評日等 -
忘れられる過去

「忘れることができる過去」か「忘れられてしまう過去」と理解するのか。題名からして荒川ワールドにまず引き込まれる。先年出版された「夜のある町で」の弟分か妹分と荒川が言っているように、この本には2001年から2003年にかけて各種メディアに発表された文章を集めている。

 詩人であり、評論家でもある彼が持ち前の緻密かつ敏感な感性で組み上げた各行は、凝った文章でもなければ、小難しい単語を振り回しているわけでもない。独特な物事の把握やさりげない言い回しの中に心を揺するものがある。「言葉の力」を再認識させられた一冊。

 荒川は物事の対比から潜在的な特性や新たな発想を提示する。
「男性に比べると、女性にはあまり鉄道ファンはいない。男はものごころつかないうちから本能的に「動くもの」が好き。昔、獲物を追いかけた名残なのかも。鉄道は同時に「動かない」世界でもある。一地点から別の地点への、一本道。そして関係者以外には動かせない列車の「発着時刻」、こうした拘束性に男性はしびれるらしい。・・・・・話しはつづく、レールのように伸びる。「私」も楽しい。ぼくも楽しい。」

 男と女、「動くもの」と「動かないもの」、「私」とぼく、そして最後に、その余韻に浸るのか、読者が新しい旅に出るのかの選択を迫るかのように、結語する。

 荒川の感性に驚かされる切り口が随所にある。ずっとチャンスがあれば実行しようとしていて、なかなかそのチャンスがなかった「メール」を思い立って実行したときの感覚。

「・・・・メールを、おそるおそる開けた。するとどこから湧いたのか。すぅーと先方の文字があらわれる。静かである。音もない。時もない。文章が生まれた瞬間に立ち会うような気分だ。古代の空気を感じた。ことばはこのようにして、この世にあらわれたのだと思った。この世から消えるものだと思った。」

 永年PCを道具として仕事上使ってきた者としては、普段何気なくメールでやりとりしているだけに、「文章が生まれた瞬間」とか「古代の空気」といった表現に触発されるとともに、そう言われてみれば、と納得させられる。日常の事柄を自分自身の感じたままに表現している文章からは、気負いはまったく感じられない。

 日本語の本が続々とベストセラーになっている現状から、
「・・・社会も何もこちらの思うようにならない。それでも人は自分が支配できるものがある事を望む。知識としてのことばは死体(または記号)だから好きなことができる・・・・ことばには口がないから、抵抗できないし文句のひとつもいえない。ことばブームは「弱いものいじめ」なのだ。ことばの本を簡単に書いたりする人は普段は冷たい人、どこかあやしい人だろうと思う。とはいえことばから目をはなすことはできないのだ。」

 知識としての「ことば」をもてあそぶ人を「普段は冷たい人」「どこかあやしい人」と決め付けるのも乱暴といえば乱暴であるが、要すればそうした人が嫌いなのだろう。嫌い、ということを洒落た表現をするものである。ことばを組み合わせる作業(詩であったり、評論であったりするわけだが)を通して、感動や勇気を伝達する荒川としては「ことば」が「知識」として扱われることに我慢がならないということか。一方、ことばの進化・変貌は社会の変化(人の変化)に応じて生じるものなので、「弱いものいじめ」と言おうが抗しがたく起こる。その現実にいとしいものへの目線を「ことば」に注ぐ。

 こうした日常の中で「やさしさ」や「たのしさ」をかたる荒川。
「若いときの文学散歩は何かが残る場所を歩いて、よろこんだ。いまは「ない」場所を歩く。そこにもよろこびがある。人間は消えていくものだ。作品も消えていく。・・」

 ここまで「ない」という現実を目の前にして、自己の感性をより高めて「よろこび」を覚えると言い切る姿勢は「ない」という現実のもつ歴史的事象(人や作品)を知っている緻密さと、普通の人では見過ごす「ない」ものへの限りない「やさしさ」なのだろう。

 評者は普段、本を読むときには、気の付いたページに小さな付箋をつけてメモを記す。この「忘れられる過去」を読んでいたとき、妻も平行して読んでいたようで、「あなたの付箋をつけた箇所は私も気に入った」という会話から、荒川自身のこと、ほかの著書など会話が弾んだ。さまざまな読者が各様に読み込む。そんな本だと思う。詩というには長く、エッセイというには「こころ」が表面に現れている。美しい日本語の文章を久しぶりに出会ったように思う。こうした文章は学校の教科書に使われるに違いないし、使ってほしいものだ。(正)

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