和解する脳【池谷裕二・鈴木仁志】

和解する脳


書籍名 和解する脳
著者名 池谷裕二・鈴木仁志
出版社 講談社(240p)
発刊日 2010.11.17
希望小売価格 1,470円
書評日 2011.01.11
和解する脳

池谷は東大大学院薬学系研究科の准教授、鈴木は弁護士で東海大学法科大学院教授。ふつう対談というと「話し手」と「聞き手」の役割が明確に分離していたり、同一分野のプロが集まって問題を深堀りしていくという形態が一般的だが、本書は他ジャンルのプロである池谷と鈴木が対談する形をとっているので、話題によって「素人とプロ」というか「話し手と聞き手」が随時入れ替わるのも面白く、加えて進化生物学、脳科学といった先端諸科学の成果を判りやすく説明していることもあり興味深く読めた。 「和解する脳」というタイトルもなかなか意味深長であるが、法曹界を代表する鈴木と脳科学の池谷の双方の期待が良く現れている。

「・・・進化生物学によればヒトは同胞とともに社会をつくり、助け合い、共存を図るという戦略によって、他の生物とは異なる特徴的な発展を遂げることに成功したといわれている。そうだとすると、人間の遺伝子や脳には共存に適した社会関係を維持するためのプログラム、もっと言えば『仲直り』を促進するためのプログラムも備わっていると考えられないだろうか。・・紛争を数多く扱ってきた実務家としては直観的に人間には『和解』に対する欲求と能力が備わっているのではないかと考えている・・・・・」という鈴木。

「・・・ヒトらしさの基底となる『社会性』に脳研究の焦点がシフトしている。すなわち脳一個だけを観察していてもヒトの心は理解できない。少なくとも二つの脳の干渉によって『心』が判る。こうした発想から脳研究者は『社会脳』という標語のもとに脳科学を進めようとしている。・・・」という池谷。

このように二人が指摘する「和解」と「社会脳」というキーワードが結びついて本書は構成されている。「争う脳」「裁判する脳」「和解する脳」「助け合う脳」と題して、ヒトが争うメカニズムを検証しつつ、脳と遺伝子の機能関係の解説、「自然科学」と「法」の推論の違いである帰納と演繹のあり方、裁判における独特な表現である「因果関係」や「心証」といった言葉の意味、「証言の確かさ」と人間が作り話をしてしまう「作話」の脳メカニズム、といった諸点を「脳科学」「人間の行動」「社会の仕組」という視点を組み合わせて話を展開している。

加えて、生活の知恵的な話題も満載されている。たとえば、「脳にとって善・悪はない。あるのは好き・嫌いだけ。したがって合理性という言葉に振り回されてはいけない」とか「紛争における金銭の和解は単に金額を提示するのではなく、これこれこういう気持ちでこの金額を提示しましたということを伝え、快感を増幅してあげると格段に受け取り方がよくなる」など。実験結果や多くの経験を提示しながらなので説得力もある。話のネタの宝庫の様である。

とりわけ、脳の構造はどう進化してきたのか、進化の過程で獲得された能力は何なのかといった話は興味深い。脳の発達は人類にとって大いなる進化ではあったものの、いろいろな問題を引き起こしてきたのも脳の仕業であると言っている。たとえば同種間の大規模な争い(戦争)を起こすのは人間だけであるという事実。脳の中で生命維持のための機能を司っている部分として脳幹がある。単に生きていくだけであればこれで良いのだし、脳幹のレベルではヒトも魚もさしたる差がないというのが生物学的な見方もあるが、進化の過程で脳幹とは別に効率的な代替回路として大脳皮質が生まれ、サルからヒトになったときその大脳皮質は一気に大きくなった。

この巨大化によってそれまで脳幹が大脳皮質をコントロールしていたのだが、逆に大脳皮質の力が前面に出てきて、脳幹の「情」に対して大脳皮質の「理」を前面に押し立てる今の人間の姿が生まれた。これこそ「人間らしい」ということだろうがそこには「生き物としての不自然さ」があるというのが池谷の見方である。

そうした、「理」が拡大した結果、人間は高度な言語構造を手に入れた。文法として、主語A、述語Bが「A(A’(A”B”)B’)B」となっている構文を「再帰」とか「入れ子構造」というが、言語が使えるといわれているサルでも「AB・A’B’」といった並列の表現までしか出来ない。人間が「再帰」という概念を理解したことで「他者視点」でものが見えることになったのだが、その能力獲得のステップについてかくれんぼを例にして説明している。

「・・・・3歳児でも、説明すればかくれんぼのルールはわかる。僕が鬼になって、手で顔を覆って『もういいかい』というと、『まーだだよ』と返ってくる。しばらくすると『もういいよ』と言うから振り返って見ると、隠れていないんですよ。そこにいるんです、3歳の子。では何をしているかというと、目を閉じて待っているんです。自分から相手が見えなければ、相手も自分が見えないと思っているんですね。つまり他者視点でものが見えていない。・・・・3歳児はまだ再帰ができない。4歳児になると少しずつ再帰ができるようになる。・・こうして徐々に他人視点を身に着けていく。これは言語が発達しないと起こらない・・・・」

こうしたことから判るように、言語発達が十分でないと自分の立場でしかものが考えられなかったり、自己中心的になったりしがちということである。3歳児からの再帰の理解や言語の訓練の大切さを示している例である。これが出来ていないと他人との関係性をよく認識できず、「和解」も出来ない大人になってしまうということだ。

「再帰」のもうひとつの重要な機能が数字を連続的にカウントする機能である。サルも数字を認識するがそれは「連続した数字」ではなく、「1は1」「2は2」として認識しているだけという。この連続の認識が発展して「無限」の概念が身につく。無限を理解しているのは人間だけであるが、加えて「無限」が理解できると「無限」でないもの、つまり「有限」がわかる。資源は有限だとか、命には限りがあるという認識であるが、人が争いを起こすのはこの「有限」を理解してしまった人間の宿命といっている。なるほど無限なら争いは起きない。ネアンデルタール人は大脳の大きさはわれわれより大きかったが「再帰」は出来なかったといわれている。すると彼らは争いの無い幸せな生活を送る猿人だったということになる。

戦争も裁判もすべて「争い」だ。しかし、「理」の暴走で人類が破滅したかというと壊滅的な戦争を何度も繰り返しながらもどうにか人類は破滅していない。この事実を、脳幹による「情」の機能と大脳皮質の「理」の機能とのバランスがギリギリとれてきたが、「理」が暴走してしまうと脳幹の持つ生物的な同調能力を超えてしまい、皆で長時間かけて自殺するみたいなことになりかねないという鈴木と池谷の心配は暴論とはいえ一理ある。と思う。いま、われわれが辿っている道は環境問題にしても非可逆的な変化の過程なのではないかと思うことは多い。それは評者のような「有限」の残りが少なくなって来た心配症の老人の妄想なのだろうか。(正) 

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