絵筆のナショナリズム【柴崎信三】

絵筆のナショナリズム


書籍名 絵筆のナショナリズム
著者名 柴崎信三
出版社 幻戯書房(236p)
発刊日 2011.07.30
希望小売価格 2,940円
書評日 2011.10.11
絵筆のナショナリズム

サブタイトルに「フジタと大観の<戦争>」とある。フジタとは藤田嗣治、大観とは横山大観のこと。近代日本の洋画と日本画を代表する画家が、どんなふうに戦争にかかわり、何を描いたのか、がこの本のテーマだ。第二次世界大戦は、単に敵対する国の軍隊と軍隊同士が戦っただけでなく、政治経済・科学技術・思想文化のあらゆる分野を動員し、「銃後」のすべての国民を巻き込んだ総力戦だったと言われる。絵画の世界も例外ではない。「彩管報国」(さいかんほうこく。彩管とは絵筆のこと)のスローガンの下、画家たちも国家の戦争プロパガンダに狩り出され、また自ら進んで絵筆を取った。

美術界の「総力戦体制」で指導的役割を果たしたのが藤田嗣治と横山大観の二人だった。とはいえ、二人が戦争画を描くに至る足跡、描いた内容、戦後の過ごし方には対照的なものがある。敗戦の後、美術界で戦争責任を追及された藤田はフランスへ去り、一方、大観は戦争責任を追及されることなく大家として晩年を全うした。

藤田が戦争画を描いたことは、代表的な戦争画を含む「藤田嗣治展」(国立近代美術館)を見たことがあるので、ある程度知っていたけれど、戦争期の横山大観については何も知らなかった。本書を読むとこの二人、ある面では対照的でありながら、屈折を抱えて戦争画にのめりこむなど共通なところもある。その2人の姿が、明治以後の近代化の過程で西洋絵画がどう受容されたか、そのことが日本画へどう影響したか、といった大きなパースペクティブのなかで捉えられているのが面白い。

誰もが知っているように、藤田はフランスでデビューし、「エコール・ド・パリの寵児」と呼ばれる人気者になった。でもその名声ゆえに、日本での藤田評価は反発と嫉妬の入り混じった辛辣なものだった。パリの寵児は日本の帝展にも出品したが、国内では無名作家にすぎないという理由から一般審査に回される屈辱を受けた。にもかかわらず藤田は、パリの名声も翳りをみせた1933(昭和8)年、「二度と帰らない」と誓った故国、満洲事変から日中戦争へと突き進む日本に帰ってくる。

一方、水戸藩士の家に生まれた横山大観は「国家のために役立つ美術」を志し、岡倉天心の東京美術学校に学んだ。卒業後は同校で教えていたが、黒田清輝ら西洋派の力が増し、校長を解任された天心と共に辞職。天心と日本美術院をつくって新しい日本画を目指したが評判は悪く、作品も売れなかった。そんな低迷を経て、やがて大観は富士山や桜など日本の風土や自然をうたう作品で声価を高めていく。「その国粋主義的なカリスマ性は、西洋文明との対決を深めながら国民の眼差しを動員し、『八紘一宇』の理想へ向けて総力戦を進めようとする国家や軍部にとって、いわばうってつけの文化的な『看板』であった」。大観の作品は、ムッソリーニやヒトラーにも贈られることになる。

戦争期に、藤田と大観はどんな「戦争画」を描いたのか。

藤田は1938(昭和13)年、海軍嘱託画家として中国に従軍し、「漢口突入の風景」を描いた。以後、ノモンハン事件に取材した「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」、サイパン島住民の集団自決を描いた「サイパン島同胞臣節を全うす」、「アッツ島玉砕」などを精力的に制作し、「戦争画によってようやく日本画壇の巨匠として認められた」。藤田は書いている。「日本にドラクロア、ベラスケス、の様な戦争画の巨匠を生まなければ成らぬ」。藤田には「西洋美術の伝統に脈流する戦争画を、日本が向き合う現実のなかに『絵画の正統』として位置づけたいという、秘めた野望さえうかがえる」と著者は書いている。

実際に「サイパン島…」や「アッツ島玉砕」を見た印象からも、著者の指摘はうなずける。宗教画の雰囲気を濃厚にたたえた「サイパン島…」、鎮魂画として近代日本絵画の傑作だと僕には思える「アッツ島玉砕」。印象派以後の西洋絵画を学んだ日本の洋画には、歴史画や戦争画の伝統がない。藤田には日本のゴヤやベラスケスになろうという壮大な野心があったのだろうか。歴史的、また宗教的背景が異なる場所でのそのような試みには否応なくある種の無理や錯誤が孕まれるとしても、これらの作品は日本の洋画の歴史の中で屹立している。僕は藤田の戦争画の絵の前に立ったとき、しばらく動くことができなかった。

横山大観は、戦争期にも桜や富士を描きつづけた。大観は藤田のような戦闘場面を描くことはなかったが、「ひたすら富士や桜、朝日や四季のなかの日本の山河を描いて、戦争画以上に人々の内面を動かし、挙国一致のスローガンに導かれた総力戦体制を演出した」。この時期の大観の傑作といわれる「山に因む十題」「海に因む十題」のうち、「山」の十点にはすべて富士が描かれている。計20点のこれらの作品は軍需産業の関係者に買い上げられ、その代金で大観は4機の戦闘機を陸海軍に献納した。

「『戦争』という社会的要請に応えて富士山を次々と描きはじめたことを画家自身が認めているように、それは作家的な主題というより、『彩管報国』という国家的な文化装置のなかで、国民の愛国感情の表象として醸成されたシンボルにほかならない」

敗戦後に米軍がやってきたとき、人々は過剰反応した。戦犯の公職追放の動きが広がるなか、美術界でも日本人画家の手で「戦犯リスト」がつくられた。陸軍美術協会の副会長だった藤田は、戦犯の代表としてその責任を追及されることになる。藤田は、共に戦争画を描いた仲間から、「どうか先生、皆に変わって一人でその罪を受けて下さい」と言われた。結局、GHQが公表した公職追放リストには一人の画家も含まれていなかったが、藤田は「犠牲の山羊」として業界内部の美術家たちの確執によって追放されることになった。

「藤田の『追放』と残された戦争画家たちの復権にみる戦後日本の美術界の軌跡は、『象徴天皇制』の発足をめぐる日本の戦後処理(筆者注・A級戦犯に戦争責任を負わせることで天皇を免責したこと)とほとんど相似形を描いている」

米軍が東京にやってきたとき、横山大観は日比谷のGHQ本部に出頭した。大観は大日本美術報国会の会長として戦争協力のトップの座にあった。が、「どのような経緯があったかは定かでない」が、GHQは大観の戦犯容疑を問わなかった。大観は、お礼に築地の料亭に担当の米軍将校を招待して歓待したという。そのようにして早々に復権した大観は、戦争期と変わらない日本の山河を描きつづけ、画壇の巨匠として名声に包まれた晩年を過ごすことになる。

「『彩管報国』の指導者であった大観が復活していく背景には、『犠牲』としての藤田嗣治の追放劇とは対照的な意味で、伝統美学の象徴である『富士山の画家』を再び求める空気が、戦後の日本社会に広がっていたことがある」

藤田の追放も大観の復活も、画家自身の問題であるとともに日本美術が抱える問題であり、さらにはそれらの絵を受容する日本人の問題でもあった。

ところで、僕たちは今、戦争画の全貌に触れることができない。藤田をはじめ、宮本三郎、小磯良平らが描いた代表的な戦争絵画153点が、戦後米国から「無期限貸与」される形で国立近代美術館に収蔵されている。ところが近代美術館は常設展で小出しにしたり、藤田嗣治展に数点出すといったやり方で展示したほかは、全体をまとまった展覧会として公開したことがない。

当事者が生きていたことやアジア諸国への奇妙な「配慮」から、そのような中途半端なことになったらしいが、戦争画をきちんと評価することなしには日本の近代絵画の全体像は見えない。また異質な才能を排除する空気や、富士や桜が戦争や力の象徴から平和の象徴へと何の抵抗もなく移りゆく伝統美学、そしてそれらを自ら望み、受け容れる日本人の気質などは、すぐれて現在の問題でもある。近代美術館所蔵の戦争画だけでなく、富士と桜の横山大観の「戦争画」なども含め、大規模な「戦争画展」を企画するのは国立美術館としての責務だと思うのだが、どうだろう。(雄)

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