書籍名 | ホーチミン・ルート従軍記 |
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著者名 | レ・カオ・ダイ |
出版社 | 岩波書店(386p) |
発刊日 | 2009.04 |
希望小売価格 | 2,940円 |
書評日等 | - |
本書(2009年4月17日発行)を手にしたすぐ後に、評者はベトナムの公的機関から表彰を受けるためベトナム・ハノイに出張した。フランス占領時代に建設された立派なオペラハウスで式典が挙行され、国家の重鎮も顔をそろえ、その模様はTVで生中継されていた。そうした晴れがましいイベントに身をおきながら、ハノイの中心部に居るということもあり、北爆やベトナム戦争の多くの情景がどうしてもフラッシュバックしてしまう。目の前で繰り広げられている華やかさとの40年前の感覚とのギャップに戸惑うばかりであった。
本書は1965年から1973年に掛けて、北ベトナム軍の軍医としてホーチミン・ルート(ホーチミン・トレイル)を 南下していった記録である。ベトナム戦争については多くの書籍が北ベトナム側、南ベトナム側にとどまらずアメリカを初めとする西欧諸国や日本で出版されてきた。それは歴史としての総括や戦闘の記録であったり、従軍写真集であったりした。そして、数多くの著名な報道写真が従軍カメラマンたちによって発表されてきた。それらの写真はけして勇ましい軍隊の姿ではなく、逃げ惑う農民や泣き叫ぶ子供達の映像との印象が強い。まさにこの戦争はゲリラ対近代兵器の初めての戦だった。
本書は、連日とは行かないものの切れ目無く詳細に書かれた日記である。一個人の視点とはいえ、軍医としての地位や教育レベルの高さだけでなく、ユーモアに満ちた性格にもよるためか、家族、仲間、国家、医学、戦闘(戦略ではなく)といった広範な視点からの文章によって、この日記の価値は高められていると思う。400頁という大著であり、延々と続く行軍の記述には読む側として退屈な面がなしとはいえないが、これが毎日書き継がれていったという事実に重みを感じる。
ゲリラ戦の厳しさは日々のちょっとした描写によって体感させられる。生きるために米を多く持ち行軍したい、しかし重い。兵士達は行軍が進むにつれて徐々に官給携帯品を整理して持つものはトレイル行進の生活に最小限必要なものに絞り込んでいった様子が生々しい。
「・・・何を運び何を放り投げるか思案中だった。一人は家族の写った小さな写真帳を見直すと写真を抜いて写真帳を捨てた。もう一人はシャツの袖のボタンを捨てた。少しでも軽くなりたい。・・・・・櫛と鏡-女性がこれなくしておられないもの-が散らばっていて、私は驚いた。その手鏡と櫛は半分に割れていた。あえて携帯するなら兵士達は櫛の歯を10本に減らす・・・・・」
このような行軍の厳しさの描写とともに、人間に対する暖かい目線を感じるのは人間中心ともいうべき著者の視点の置き方にある。この時代ベトナムでは三つの延期という政策を取っていたという。「恋愛の延期」「結婚の延期」「出産の延期」の三つである。しかし戦場ではつらい現実も起こる。部下の看護婦が戦場で妊娠した。その中絶手術を自転車のライトを頼りに上司である著者が行う。もう一つの事件では強姦され妊娠した女性兵士が縊死する。そうした軍としては隠しておきたい事件も記述しつつ、自ら管理者として部下をそうした事態に追い込まずに守れなかったという責任を感じながらの日記の筆はさすがに重そうに感じる。
また、著者の現実主義者として面目躍如たるしたたかさが示されている。南北に長いベトナムと近隣のラオス、ミャンマーには少数民族も多い、特に中部高原では少数民族の居住地域を進み続けるのだが、そこには市場もなく、貨幣もない、物々交換の世界である。著者が戦地でも学術論文を書いていて、それが出版され国から印税が戦場の筆者に現金で届けられるとの話があったがかれはそれを断る。
「・・・紙幣は戦場で無用だ。代わりに腕時計を頼んだ。その時計を受け取り管理部門のスタッフに持たせて村へ食料を交換にいった。・・・・・・」
まさに、自分で生きる術を考え、実践することが要求されているのだ。こうした戦いの中でも各種情報の入手にエネルギーを割いている状況がよくわかる。アメリカの軍の動きの捕捉と正しい情報判断にエネルギーを割くのは当然としても、北ベトナム軍では敵側の放送聴取は禁止されていたはずだが、こんな記述がある。
「・・・BBCやアメリカのラジオを聴いていない幹部は居なかった。彼らのニュースは早いからだ。私達はニュースで正確な報道を渇望していた。・・・」
こうしたラジオ放送の聴取により、前線の幹部はアメリカ大統領選の行方に一喜一憂していたようだし、ホー・チ・ミンの死についてもリアルタイムでラジオ放送を通じて前線にも伝えられていた様子が良く判る。「ホーおじさん」と慕われていただけにその死の影響は全軍においても大きいにもかかわらず、ニュースが隠されること無く前線に到達している事実にも驚く。情報の隠蔽なくリーダーの死を発表できる国としてのベトナムが持っていた極めて健全且つ民主的な文化に注目したいところである。
「・・・・一人の医師が興奮して駆け込んだ。『ホーおじさんが重病だ』私はびっくりして手術の手を止めた。『どうして知ったの?』私はたずねた。『ラジオのニュースが今流れた』。
9月3日の午前5時15分、ベトナムの声放送はホーおじさんの病気を発表した。早起きのものだけが放送を聴いた。しかし、そのニュースはたちまち隊全体に広がった。スタッフも患者も心配で、気もそぞろとなった。・・・・9月4日の朝、ラジオのアナウンサーが声を詰まらせながら、ベトナム労働党中央委員会、ベトナム国会代行委員会、政府閣僚会議、そして祖国戦線の特別声明を読み上げた。みな衝撃を受け、耳が聞こえなくなったようだった。私達がとらえたのは次の文章だけだった。『ホー・チ・ミン大統領は1969年9月3日、午前9時47分、心臓発作で逝去された』・・・・・・・」
著者のレ・カオ・ダイ博士の墓碑銘には彼の生涯が次のように書かれているという。
「1928年ハノイ生まれ、1946年ハノイ医学大学卒業、抗仏戦争時代から軍医として各地を転戦、ベトナム戦争では1966年から1974年まで前線の軍医として従軍。ベトナム戦争後枯葉剤被害の研究に従事。結果、ダイオキシンに冒され病に倒れた」
いま表面的にベトナム戦争をベトナムにおいて探すことは難しい。現在のハノイにおける各界のリーダーの多くは当時高校生だったという人が多い。それ以上の年齢層の国民と彼らとの経済的格差は大きくなっているとの声も聞いた。命を賭して戦ったのは自分たちと考えている老齢層の不満が大きい。経済発展を徹底して追求する姿勢と政治原理のバランスのとり方はベトナムに限らず難しい課題である。
しかし、ゲリラ戦の本質である次の言葉を忘れない限りベトナムは前進し続けるのだろう。「着いたらどこでも家、寝たらどこでも寝床」(正)
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