書籍名 | 流される |
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著者名 | 小林信彦 |
出版社 | 文芸春秋(284p) |
発刊日 | 2011.09 |
希望小売価格 | 1,550円 |
書評日 | 2011.11.12 |
小林信彦は昭和7年(1932年)生まれ。この世代は「満州事変の勃発とともに生まれ、以降、戦争の中に居た」と小林自身が言っているように「戦争とともに育った世代」だ。もう少し上の世代であれば徴兵で戦地に狩り出されたが、この世代は10代の多感な時期に戦争と敗戦という真逆の環境におかれ大きな戸惑いの中で青春を過ごし、戦争の理不尽さを生活感で記憶している世代だと思う。その小林は就職難の中、1959年の「ヒッチコックマガジン」編集長に始まって、小説家や、映画・ジャズ・落語といった分野における評論家、TV勃興期のシナリオ・ライターなど、各種ペンネームを駆使しながら多方面で活躍した。1983年に出版された「ちはやぶる奥の細道」などは仕掛けを含めて面白く読んだものだが、最近、彼の文章に接するのは週刊文春のコラムぐらいであったのは寂しかった。
本書「流される」は著者云うところの「自伝的長編」というジャンルで過去発表してきた二作に加えて完結するものになっている。2005年に出版された「東京少年」は終戦前後における自身の体験として、集団疎開・個人疎開を描いており、土地っ子との確執、東京から疎開した生徒の間でのいじめなど、明るい展望があまりない話だった。2007年には、父方の家系を題材とした「日本橋バビロン」を発表し、日本橋両国にあった古い商家(和菓子屋)が戦争を挟んで凋落していく姿を描いている。
本書は、母方の祖父を中核に据えていて、「日本橋バビロン」の父方の祖父について殆ど小林自身で記憶に無い中での文章と比較すると、自身の印象や記憶によった描写は細やかだ。結局のところ日本と言う国は母系社会で、母親がなにかと実家に帰ったり、付き合いが深かったりする。それだけにより濃密に母方の祖父という鏡に映った自分を時代の変化とともに描けるということだろう。舞台回し的に登場する人物や場面によってフィクション臭さは残っているものの、「自伝的長編」というジャンルとしては微妙にバランスがとれている。
ただ、「これは『日本橋バビロン』の中に詳しく記しているので、くりかえすのはやめよう・・・」とか、「『東京少年』に書いたので・・・」いった表現が散見されるのは、前作を読んでいる読者にはスット読み飛ばせるものの、本書からの読者にとっては多少違和感を覚えるかもしれない。
祖父「高宮信三」は現在の沖電気の前身である明工舎創設時に事業参画し、大正半ばに独立して青山一丁目に工場を併設した屋敷を構えて、「高宮歯科工業株式会社」を設立した人物。山形から明治の東京に出て来て、工員からたたき上げた、典型的な立身出世話である。祖父との思い出をテーマに、昭和29年(1954年)の死去までを回顧している。その青山の地域描写は隔世の感がある。
「青山一丁目の交差点の渋谷側の南北が石勝石材店の仕事場になっており、何人かの職人が絶えず、音高く墓石を刻んでいた。」とある。現在青山一丁目交差点の渋谷側の南側はホンダの本社ビルがデーンと構えているが、当時の南青山一帯は青山墓地と隣接した地域で、北杜夫の「楡家の人々」の舞台となった斎藤家の「青山脳病院」も近くで、「夕方、二階のもの干し場に上がると人魂が見えた」という話もそれらしく聞こえる土地柄だったようだ。
その家に小林少年は両親と両国から月に二度通っていたという。 「子供二人を含む一家四人が簡単に移動できるのは、当時は珍しい自動車であり、父はオースティンの黒いワゴン車を持っていた。和菓子屋の若旦那が配達用のワゴン車を持つのはそう不自然ではない。もっとも、オースティンでなければならないというのは、かなり不自然な気もする」
戦争が始まり小林の父親は、代々続く和菓子屋の切り盛りは奉公人に任せて、祖父の青山の工場に通うことになる。
「いわゆる<徴用逃れ>である。強度の近眼の上に結核の過去があるので、軍隊にひっぱられるおそれはないが、軍需工場で働かされる可能性があった。・・・そこで、立花屋本店の当主をつづけながら、信三の工場の一事務員であるという形を選んだ。工場では一部で軍需的作業をしていたのかもしれない」
戦前、オースティンに乗り、戦時中は義父の工場の事務員という隠れ蓑を活用するといったエピソードは庶民との差を歴然と示している。戦時中であればその差は「生死の差」に等しいものだったろう。階層社会というか、格差社会が厳然としていた時代が表されて居る。
戦争が終わり、疎開から戻った14歳の小林少年は、この母方の祖父の家に一家で転がり込んでいた。現在の筑波大付属中に戻り、本屋が近所にないと意気消沈してしまうといった少年だったと回想しているくらいだから、「金」や「食事」に困ったことはなかったのだろう。昭和22年、75歳の祖父からの頼み事として、日本橋の榛原(和紙)とか青山の吉橋(肉屋)といった老舗へのお使いから、「握り寿司を買って来い」といった要求まで細かく記述している。当時、握り寿司などあったのかと思うがこんな仕組みだった。
「伯母に米を一合もらい、渋谷の東横デパートにでかけた。食品街の入り口の右側に鮨屋があった。私が一合の米を出すと、店の主人は同量の鮨飯を出し、赤貝や穴子を握った。鮨種ぶんの料金を払い、折箱を下げて帰るのだ。・・・そのころ私は何を食べていたのだろう。うまいものを食べた記憶はない」
世の中が劇的に変わってもなかなか人の意識は変わらないものだとつくづく思う。ここに書かれている老人の姿は社会の変化を理解しつつも生活を変えられない頑固さと、ある程度その我儘が言えるだけの財力があったと言うことだろう。また、駐留軍のPXからの物資の横流しや、横浜中華街の闇レストランでの食事など、金さえ出せば食べ物も酒も闇でどうにでもなった時代が活写されている。よく言えば、知恵と才覚が問われる時代。悪く言えば、うまく立ち回れなければ生きていけない時代だったといえる。
昭和20年代も後半になり、高校から大学に進む頃は、銀座に遊びに出掛けたり、学校における映画研究会の活動など、学生生活を自由奔放に謳歌していた姿が良くわかる。小林の多才さを育んだものとは日本橋、両国、青山、銀座、池袋といった地域固有文化がまだまだ色濃く残っていた時代だと思う。しかし、早稲田大学は出たものの就職試験はことごとく落ち、なかなか定職につけない時期が長かったようだ。「その後の私の人生については、語るほどのことはない。就職難の後だから、さまざまな職業を転々とした、というしかない」という言葉で締めくくっている。
1960年代のテレビの時代に青島幸夫や永六輔とともに一世を風靡した「その後の人生について」語りたいことは沢山あるはずだ。それを語ると存命の人も登場せざるを得ないというところに筆が動かない理由があるのかとも思う。下町っ子のシャイなところだ。小林信彦らしいと評者が考える1960年代から70年代の回顧を語ってほしいという期待は大きいのだが。(正)
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