ポリティコン(上・下)【桐野夏生】

ポリティコン(上・下)


書籍名 ポリティコン(上・下)
著者名 桐野夏生
出版社 文藝春秋(上448p・下416p)
発刊日 2011.02.15
希望小売価格 各1,650円
書評日 2011.04.11
ポリティコン(上・下)

まず断っておきたいのですが、この記事はいわゆるネタバレです。ただしそのネタバレが的を射ているのかどうかは、僕にも分かりません。いずれにしても、これから桐野ワールドに浸りたいと思っておられる方は、小説を読んでからもう一度、ここへ戻ってこられることをお勧めします。と前振りしておいて、まずはそのネタバレから。『ポリティコン』は、桐野夏生の小説には珍しい「ボーイ・ミーツ・ガール」なのだった。そのことが、800ページ以上あるこの小説の最終ページまで読んできて分かった。……と、言ったそばから弱気になるのだが、この見方に同意してくれる人はいないかもしれないなあ。これはどこから見ても普通の「ボーイ・ミーツ・ガール」の青春小説じゃないし、読み終えて感動の涙を流すこともないからなあ。

桐野の前作『ナニカアル』は、第二次大戦中に従軍作家としてアジアの戦線を回った林芙美子の伝記的事実を基に虚実ないまぜになった面白い小説だったけれど、『ポリティコン』も似たような構造をもっている。武者小路実篤ら白樺派の「新しき村」や宮沢賢治の「羅須地人協会」といったユートピア的農業共同体の実践を下敷きに、山形にもうひとつの理想郷建設運動「唯腕(イワン)村」があり、それが今も生き残っているという設定で物語が始まる。時は1997年。

主役は「ボーイ・ミーツ・ガール」の男のほう、唯腕村の未来のリーダーと目される高浪東一(といち)。東一は、唯腕村を建設した2人の人物、白樺派の作家と彫刻家の双方を祖父に、二代目の現理事長・素一を父にもつ村のエリートだ。といっても、いま村には東一以外の若者はいない。

地方の農村の例にもれず、唯腕村も過疎と高齢化にさらされている。若者は村を離れ、都会から金銭的援助をしてきた「村外委員」も次々に死に、東一たちが養鶏を営んで辛うじて村の財政を支えている。村には何もしないで絵や書を描いている「芸術家」もいる。理事長の素一はといえば、村人を出演者に演劇にうつつをぬかしている。息子の東一の楽しみは、ヒッピーくずれの中年少女アリスとセックスしたり、村外の友人と近くの町で酒を飲み、スナックで中国人ホステスを口説くことくらいだ。

言うまでもないけれど、唯腕村が抱える問題は、この国が抱えている問題そのものだ。そんな「衰退するのをじっと待っている」村に、「ボーイ・ミーツ・ガール」のもう一方の主役、美少女マヤがやってくる。

高校生のマヤは仙台で母と暮らしていたが、母は突然姿を消した。かつて母親と一緒に暮らしたクニタがやってきて、ここにいては危険だと彼女に告げる。母とクニタは、どうやら北朝鮮からの脱出を金で請け負う脱北ビジネスに関係しているらしい。クニタとマヤ、そしてクニタが連れてきた朝鮮人女性のスオンと息子のアキラは、家族を偽装して唯腕村に入り込む。

美少女マヤと魅力的なスオンが入ってきたことから、村は大きく動きはじめる。なにしろ村は「みんな歳取って枯れた顔してるけどさ。相関図書いたら、真っ黒」なのだ。理事長の素一がスオンたちの入村を許可したことで、村の衣食を支えてきた素一の妻ら第一世代の女性はサボタージュをはじめる。息子の東一はマヤにぞっこんほれ込むのだが、マヤは東一の関心を歯牙にもかけない。東一はマヤばかりでなくスオンにも、「スオンさん、やらせでけれよ。あんだ、魅力的だよ」と迫る。

ここらあたりから、桐野夏生ワールドは全開。閉ざされた環境での人間関係のぐちゃぐちゃは『東京島』でもおなじみだ。理事長の後継をめぐって東一は村を飛び出し、東京でライブハウス「ディストピア」をやるのだが、父・素一の死をきっかけに村に帰って理事長就任を宣言する。

「俺の村。俺が存続させて大きくし、村民を増やして、永久に支配する村。若く、満ち足りた村人が村道を行き交い、昼間はほどほどに労働して、夜は酒を酌み交わして談笑し、楽しく過ごす村。勿論、誰にも言えないが、その中心には、マヤがいる」

しかし東一の一方的な宣言によって、狭い村内は分裂してしまう。東一が頼りにするのはクニタやスオン、農村の日本人夫から逃げてきた外国人妻たちといった新しい村民だ。東一は養鶏を拡大して儲けようと、近づいてきた男がヤクザと知らずに金を借り、有機食品と偽って外食チェーンに野菜や鶏肉を流す。言うことをきかないマヤには、進学費用を出す代わりに愛人になれと迫る。

一方、東一に反対するグループの旗頭は、有機農業をやり、さらに無農薬無肥料農業に挑んでいる原理主義者の山路夫婦だ。都会育ちの山路はセンスがよく、元全共闘で弁も立つ。しかし村には内緒で都会のスーパーと無農薬ブランド米として契約し、家の地下にはワイン蔵もあるらしい。山路は東一にこんな言葉を投げつける。

「東一君。唯腕村は、農業をすると言っているけど、すでに農の心を忘れた。自然と共に生きるという基本をね。ある意味、堕落したのだから、僕らが一緒にできるはずがないのだよ」

卓越したストーリー・テラーである桐野の小説の筋を追えばきりがないけれど、東一はいわゆるどうしようもない男として造形されている。介護が必要になった老いた村人を施設に追いやり、金を儲け、女性をはべらせてハーレムをつくり、反対派を蹴落として村を支配しようとする。桐野の小説では美少女はたいてい酷い目に会わされるのだが、東一の言うことをきかないマヤは、借金のカタにヤクザに売りとばされる。

桐野の小説の愛読者なら、唯腕村と東一がどのように転落するのか、マヤがどのような酷薄な運命を辿るのか、とぞくぞくしてしまうだろう。なにしろ桐野の小説では、主人公たちはしばしば作者によって突き放され、破滅に向かってまっしぐらに突っ走る。『グロテスク』でも『out』でも主人公は最後に魂の解放を味わうけれど、それは社会的な破滅や社会からの排除を代償としたものだった。ところが、『ポリティコン』では少し様子が違う。

だいたい主人公を男に設定した桐野夏生の本格的な小説があっただろうか。長編ではハードボイルド時代の『水の眠り 灰の夢』くらいしか思い出せない。そんな桐野の小説には珍しい男主人公の東一が、読んでいるうちにどこか憎めない、魅力を持った男に感じられてくるのだ。なぜならば、東一は男として、それが社会的に正しいかどうか、常識に適っているかどうかはともかく、なんともたくましい生命力を持った人間として描かれているからだと思う。

「感じたことや思ったことがすぐ表情に出る若い男。マヤは東一を嫌いではなかった。だが、東一の思慕は並外れて大きく激しく、その中身を思うだけで気が重くなる。マヤは、自分のいったい何が東一を惹き付けているのかわからなかった。そして、東一の自分に対する執着が恐ろしかった。勿論、自分がまだ幼くて、男の愛にこたえられないのだ、とまでは思い至らない」

東一だけでなく、父の素一もそのような男として描かれている。素一が息子の東一に「唯腕村経営の秘訣」をこんなふうに述べるシーンもある。

「あんなあ、リーダーは私利私欲をはっきり見せつけて、男臭い方がいいんだって。そうなりゃ、男たちはな、口に出せない自分の欲望を代弁されたことですっきりするし、またリーダーがそういう人間臭いところを見せると安心するんだず。女たちはな、実はそういう男が大好き。嫌いな素振りしても、本当は好きなんだって。これは本当だず。共同体の真理よ。……だから、俺の代で、唯腕村は素晴らしい理想郷として花開いたのよ。そりゃ、今はもう駄目だよ。理由は、みんな年取ったがらだ。でもよ、おめが生まれる頃は、みんな生き生きしてだなあ。都会からヒッピーは来るし、そりゃもう、我が世の春よ。俺は、その時、わがったの。俺が、こういう一見自堕落に見えるけれど、魅力的な男でいることが、村の経営には一番いいんだってことがさ。東一、おめにできるが、こういうこと」

作者が男性だったら、斎藤美奈子さんあたりから時代錯誤のマッチョな台詞として糾弾されてしまいそうだ。でも桐野のまなざしは素一に対しても東一に対しても優しい。彼らはどうやら桐野夏生に愛されているようなのだ。これは桐野の小説に登場する男には珍しいことではないだろうか。

『ポリティコン』第一部は東一を語り手とし、第二部はマヤを語り手としている。読みながら、どうやら一直線に破滅に向かっているのではなさそうだと感じながらも、結末はどうなるのだろうと、はらはらさせられる。

桐野夏生は無茶苦茶な生命力を持った主人公、東一のなかにある「少年(ボーイ)」を愛していた。そして都会のホステスとして生きるマヤのなかにある「少女(ガール)」を信じていた。だからこそ、最後のページになってこの小説は「ボーイ・ミーツ・ガール」になったのだと僕には思える。

この小説を読みはじめたとき、東日本大震災が起こった。数日間はニュースに釘付けになり、小説を読む気も起こらなかった。でも、果たしてこんな時に小説世界に浸れるだろうかと案じながら読みはじめたら、ぐいぐいと引き込まれた。欲望にまみれながらも少年の心を失わない東一の、あふれるほどの生命力への桐野の信頼が、よりいっそう切実に感じられた。「俺、北海道に土地買ったんだ。唯腕村をまたやろうと思って。だから、マヤちゃん来ないか」という東一の台詞は、壊滅からの再出発を告げる決意のようにも聞こえる。(雄)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索