明治六大巡幸【奥 武則】

明治六大巡幸


書籍名 明治六大巡幸
著者名 奥 武則
出版社 中公選書(252p)
発刊日 2024.01.10
希望小売価格 1,870円
書評日 2024.02.16
明治六大巡幸

タイトルの「明治六大巡幸」とは、明治5(1872)年から18(1885)年にかけて明治天皇が北海道から鹿児島まで全国を回った6回の大規模な巡幸を指す。サブタイトルに「『報道される天皇』の誕生」とあるように、この巡幸はちょうど新聞というメディアが本格的に生まれた時期に重なっている。明治天皇とその全国巡幸を、新聞という新興メディアがどう取り上げ、天皇をいただく新しい国民国家をつくりあげる上でどんな役割を果たしたのか。それがテーマ。著者は新聞社に在籍した後、大学に転じたジャーナリズム史の研究者だ。

この主題を考える上で、著者はまずいくつかのキーワードを提出している。「見える(見えない)天皇」「旅する天皇」、そして「報道される天皇」。

明治維新以前、天皇は京都の御所を出ることはほとんどなかった。「わずか三十分で一周できるような……信じがたいほどの狭い空間だけで生活してきた」(佐々木克)。だから、ごくひとにぎりの公家以外、天皇の姿を見ることはなかった。天皇に接することのできた公家も御簾の向こうにぼんやりと姿を見るだけ。天皇は「見えない天皇」だったのだ。

維新後、新しい統治者として天皇をいただく国家をつくるにあたって、「見えない天皇」を「見える天皇」にしなければいけない、という意見をくっきり持っていたのが大久保利通だったとは知らなかった。大久保が出した建白書(慶應4年)にこうある。「主上と申し奉るお方は玉簾の中におわしまして、……限られた公卿方のほかは拝し奉ることができないご様子は、民の父母である天賦のお仕事にそむくものです」(著者による現代語訳)。その上で大久保は外国の例を挙げる。「即今外国に於ても帝王従者一二を率して、国中を歩き万民を撫育するは実に君道を行ふものと謂べし」(原文)。

大久保が建白書を出した後、天皇の大阪行幸が発表される。もっとも、この時期まだ戊辰戦争がつづいていたから、民に天皇の姿を見せるというより討幕軍の艦隊演習や藩兵の調練に臨んだだけだが、「大阪行幸は……『見えない天皇』を『見える天皇』へと変身させる最初の出来事だった」。また、御所から出ることのほとんどなかった天皇が「旅する天皇」となる第一歩でもあった。

その数か月後、明治と改元され会津若松城の開城直前に、天皇は東京への行幸に出発する。翌年には二度目の東京行幸(遷都)。この頃、まだ定期的に刊行される本格的な新聞は登場していない。半紙を折りたたんだ冊子体の『中外新聞』(著者はこれを「プレ新聞」と呼ぶ)などに行幸の記事がいくつか載ってはいるが、戊辰戦争の行方や行幸の様子を広く伝えたのは錦絵だった。「報道される天皇」が本格的に出現するのは、まだ先のことになる。

明治5年、天皇は最初の六大巡幸として、大坂・京都から下関、長崎、鹿児島を巡る中国西国の旅に出た。この時期になると、最初の近代的新聞といわれる『横浜毎日新聞』など、今の新聞と同じ判型で、鉛活字を使い、定期的に刊行される新聞が全国で誕生している。そのひとつである『京都新聞』は、「御馬ニテ出御、近衛兵并鎮台兵前後ヲ警備シ人民ヲシテ親(したし)ク天顔ヲ拝スルヲ得セシメ…」といった記事を掲載した。「この記事で目を引くのは、天皇が鳳輦(ほうれん=天皇専用の輿)ではなく、馬に乗って移動し、『人民ヲシテ親ク天顔ヲ拝スルヲ得セシメ』ているという記述である。まさに、ここで天皇その人は『見える天皇』となり、『京都新聞』によって、『報道される天皇』になったのである」。もっとも、こうしたニュース記事はまだ少なく、巡幸をめぐる記事の多くは太政官が発表する布告など官報的なものが多かった。

巡幸が本格的なニュースとして報道されるのは、次の東北・函館巡幸(明治9年)からのことになる。この頃になると新聞の側でも、「女童(おんなこども)…にでも分るように」、ルビつきのやさしい文章で書く『読売新聞』などが登場していた。また、「報道される天皇」が生まれるには、新聞というメディアだけでなく、記事を書く「報道する人」=新聞記者がいなければならない。この東北・函館巡幸で、最も長く、読み応えある記事を書いたのは『東京日日新聞』のスター記者、岸田吟香だった。岸田は巡幸に随行し、37回にわたって「御巡幸ノ記」を書いた。例えば、出発の日の記事はこんなふうになっている。

「昨二日の 御発輦を拝まんと御道筋の両側は万世橋より千住までの間に錐を立べき隅も無き程に充満し取分けて集まりしは万世橋、上野広小路、千住の三ヶ所なりと知らる。御道筋は令せずして軒ごとに国旗を掲げ…」

東京を発った天皇は、蒲生村(現・越谷市)で田植えを見、利根川では鯉の漁を、増田(現・名取市)では麦搗(むぎつき)を、函館ではアイヌの踊りを見たりしている。巡幸の行列にはどこでも「我も我もと押し集り往来及び田畔の間に群集」して、まるで「鎮守の祭礼を見物するありさま」だったという。また各地の小学生も「奉迎」に動員された。

この時期、各新聞の発行部数は大きく伸びている。岸田の記事が載った『東京日日新聞』は1日の発行部数が約10,000部。ほかの新聞も巡幸に随行記者を派遣して記事を載せたから、「沿道で巡幸の行列を見た『奉迎者』をはるかに超える数の人々が、新聞を通じて巡幸の全容に接しただろう。彼らは、沿道で行列を見ただけでは決して窺い知ることのできなかった天皇その人の行動を逐一知ることになった」。

人びとは巡幸をお祭り騒ぎで迎え、天皇を直接に見ることができた。そこに行けなかった人々も新聞を通じ、あたかも自分がその場にいるかのように天皇の存在を知ることになった。そうした記事を媒介にした「想像」によって人びとは、自分のことをこの国を治める天皇という統治者のもとにいる「国民」と感ずるようになる。著者はこの六大巡幸を「統治者としての天皇を具体的に目に見えるかたちにするために、政府が国家を挙げて取り組んだ大プロジェクトだった」と位置づけている。そのために、新聞という新しいメディアが大きな役割を果たした。

六大巡幸の後も、天皇の行幸は続いた。でも、国民に天皇を知らしめるための六大巡幸とは大きく性格の異なるものになっていく。それを象徴するのは明治23年の行幸で、このとき天皇は大元帥服を着ていた。行幸の行く先も軍事施設や演習の統監といった軍事色の濃いものになってゆく。

天皇巡幸については、これまでも多くの研究や著作が出ているようだ。政治史、思想史、文化史、いろんな分野での読み解きが蓄積されている。この本の読みどころは、そうしたものを踏まえ、長く新聞社に在籍した著者らしく創世期の新聞を読みこんで、「想像の共同体」(B・アンダーソン)が生まれる過程で新聞というメディアがどんな役割を果たしたかを、それを可能にした記者という人材や、印刷技術の発達にも目配りして具体的に描き出したことだろう。

最後に触れられているように、この新しい国民国家はその後、日清そして日露の戦争へと突き進んでゆく。そのころになると写真機材と写真を印刷する技術の発達によって、人びとがそれらの事態に想像上で立ち会う素材として、新聞はいちだんと大きな力を持つことになる。そんなふうに、この本が取り上げた次の時代まで考えさせられる、刺激的な読書だった。(山崎幸雄)

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