もどれない故郷ながどろ【長泥記録編集委員会編】

もどれない故郷ながどろ


書籍名 もどれない故郷ながどろ
著者名 長泥記録編集委員会編
出版社 芙蓉書房出版(392p)
発刊日 2016.03.05
希望小売価格 2,592円
書評日 2016.05.17
もどれない故郷ながどろ

福島県相馬郡飯舘村長泥地区は福島第一原発の事故で放出された放射性物質に汚染され、帰還困難区域に指定された。長泥に住む74世帯281人が避難して5年たつ。この本は、村民が持っていた写真や50人以上の村民への聞き書きによって、「もどれない故郷」への思いをつづり、生活の記録を後世に残すために研究者や自治体職員、ジャーナリストの協力を得てつくられたものだ。

原発事故から10日後の写真が収録されている。長泥地区の中心である長泥十字路で、白装束に身を固めた測定員と普段着の村民が話をしている。このとき長泥は避難が必要となるほどに汚染されていたが、村民は何も知らされず普段どおりの生活をしていた。

「十文字でしゃべってると、白装束来るんだよね。こっちは普段着でいるんだよ。ホースを後ろのトランクから出しては測ってるんだ、線量な。『なんなの、あんたらは、そんな服着て!』って言った」(引用は適宜省略した。以下同じ)

事故直後、原発から30キロ以上離れた飯舘村には原発周辺の住民が避難してきて、村民は支援の炊き出しに追われていた。原発が爆発を起こし、北西方向への風に乗って高濃度の放射性物質を長泥にまきちらしたのは、ちょうどそのときだった。

危機感をいだいた一部の住民が自主避難をはじめたが、全村が計画的避難区域に指定されたのは事故から1カ月以上たってからのことだ。その後、飯舘村は地区ごとに避難指示解除準備区域と居住制限区域に再編されたが、長泥地区だけが帰宅困難地区(年間50ミリシーベルト超)とされた。富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、飯舘村長泥にまたがる帰宅困難区域は、除染など手つかずのまま放置され、解除時期なども明確に示されていない。現在でも一部住宅の雨樋排水溝付近では毎時30マイクロシーベルトが計測されているという。

飯舘村長泥地区は阿武隈高地に広がる山村である。村人たちがどう生きてきたか、その声に耳を傾けてみたい。

「嫁に来ても暮しはひどかったです、開墾だから。開墾てなぁ、山の土地、林野庁から買って、何もねぇ山をおこしたの。田んぼも畑もな、全部。ひどい山だった、石はあっぺしな。機械なんてねぇから、唐鍬でおこして、やったんです。戦争終わったころな。……開墾しているうちは収穫ねぇがら大変なんだったよ。どうやって暮らしたんだべな、炭焼きだのしてだ」

明治以来、入植開墾によって長泥は少しずつ人が増えてきた。戦後も開墾はつづいた。そのころは炭焼きが唯一の現金収入の道だったそうだ。その後は、この地が馬の産地だったことから酪農がさかんになった。

「酪農、おらが始まりなんだよな。北海道の八雲町一年いて。一年働いて、(もらったのは)ホルスタインの仔牛一頭。乳はすごい出るしな。いい牛があった。こっちで牛ずっとやってたんだ。(長泥では)元はほとんど馬だったから。乳牛は、おらが持って来たんが始まりだったんだ。だけど、金とんねぇとダメだかんな、出稼ぎもやったぞ。今の原発、一号から四号まであっぺ。あの一号は、地下からやったんだ。いやー苦労したわい」

近くの山から御影石が採れることから、石材業を営む家も多い。

「昭和六十二年、三年ころは、いちばん儲かる職業が、医者か石屋かっていう時代だったんです。墓石です。主に東京方面に出荷したんですよ。そのころは、掘り出した原石のまま売ってたんです。ところが、付加価値を高めないで原石で売ったんではなんにもなんねえ、加工して売ろうと。じゃあ、加工工場をつくろうっていう雰囲気になって、昭和六十年代から平成十年ぐらいのあいだは加工工場がいっぱいあったんですよ」

最近では飯舘村は「までいライフ(和製スローライフ)」をスローガンに、農業を中心に自立した地域づくりを目指す自治体として知られていた。住民参加で地区ごとにさまざまな試みがなされ、長泥ではアンデス原産の芋・ヤーコンを使った食品の商品化やタラノメの栽培が軌道にのっていた。県外から移住した新住民もいる。

「退職後は田舎暮らしをしたいと、最初は長泥と(東京都)調布で半々くらい、家を建ててから被災するまでは長泥に四分の三くらいの割合で生活していた。長泥のようなコミュニティは、人間として安心できる場なのではないかと思うようになった。特に、草刈りとかの共同作業で一緒に汗を流すことによって、何かあった時に汗を流しあえるという安心感が得られる。長泥が素晴らしかったのは、コミュニティの実体があったことだと思う」

原発事故はこうした人々の暮らしをすべて壊してしまった。5年たった現在の住民の状況を、長泥の区長が率直に語っている。

「最初はみんな、東電だとか国の悪口言ってたとき、結束力あったのよ。ところが、保証金、賠償金というニンジンの額が違うから。長泥が帰還困難区域だから『特別にカネが入ってる』って、やっかまれる。同じ長泥でも俺みたいに六人家族のと、一人家族の人は、もらえる金額が違う。だから隣同士で『おまえはカネもらったから家を建てられる』とか『いい暮らしできる』とか。飯舘村の住民は、こんなふうに言ったら悪いけど、七割、八割は、ホッとしてんだ。暮らしが楽になったわけさ。ホッとしてるつっても、金銭だけだよ。なんつうの、魔法にかけられてんだか、それとも、馬鹿夢を見せられてるのかな、って俺は思ってる。こんな生活は続かないって、俺は思ってる。そうなんだ。俺は、いま、飼い馴らされてる。飼育されてるのとおんなじ。どういったらいいかわかんないけども、国が、もう、身動きできないように、飼い馴らすっていうんだか、押さえつけるっていうんだか、そういう政策をやってるのかなと」

区長は「馬鹿夢を見せられてる」という言葉を口にしている。故郷での生活は根底から破壊されてしまった。子供や孫を高い放射能のもとで何週間も生活させてしまった後悔。将来、子供や孫に異常が出ないか、就職や結婚で差別されないかという不安。避難しても、家族は世代ごとに分断され、若い世代の多くは長泥へ戻らないと決めている。故郷への思いを断ち切れない人々にとっても、いつになったら戻れるのか、見通しは立っていない。
 
帰還困難区域の除染は手つかずだから、このままでは自然に放射性物質が減るのを待つしかない。長泥を汚染しているのは主にセシウム137で、この物質の半減期は30年。世代をまたがなければ帰還できる環境にはならない。いつになったら戻れるのか、国ははっきりしたことを言わない。もう戻れないとも言わず、なにがしかのお金を配っただけだ。住民はいわば生殺しの状態に放置されている。

酪農を学び50頭の牛を飼育していた40代男性の語る夢が、失われたものの大きさを痛切に伝えてくれる。

「いつの日か、避難解除になりますよね。そしたらあそこに戻って和牛二頭飼うんだー、って。趣味です、趣味。好きなんです、自分ちのこう、敷地をウロウロして。『あ、俺んちって、ホタルいるんだぁ』とか。『ここの小川にサンショウウオがいるんだぁ』とか。犬の散歩しながら。それが好きなんですよ。で、まぁ、そう、ね。時が経ったら戻りたい」

長泥ではなかったけれど、飯舘村をいちどだけ通ったことがある。福島駅からバスで南相馬へ行ったときのことだ。なだらかな丘陵がつづく緑なす山村。その美しい風景のそこここに、除染された汚染土を詰めこんだ黒いフレコンバッグが無数に積み上げられていた。それは行き場をもたないまま今も増えつづけている。(山崎幸雄)

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