愉楽【閻 連科】

愉楽


書籍名 愉楽
著者名 閻 連科
出版社 河出書房新社(464p)
発刊日 2014.09.30
希望小売価格 3,888円
書評日 2015.01.12
愉楽

当方、今年で68歳になる。歳とったせいか、映画でも小説でも最近は物語性の豊かなものでないと面白味を感じないし、だいいち根気がつづかない。もっとも20世紀には映画も小説も物語性をいったん解体してみせる実験があったから、以後の作品は多かれ少なかれそれを意識しないわけにいかない。昔のように直線的な時間や空間に沿って波乱万丈の物語が繰り広げられる、といったものばかりではなくなっている。

そのような意味で、豊かな物語性を今日的に回復してみせたのは小説なら1960年代のラテン・アメリカ文学だった。ガルシア=マルケス、ボルヘス、プイグらの小説は魔術的リアリズムとも呼ばれ、豊かな物語性とともに、現実と非現実がないまぜになった幻想性や熱帯の風土と自然へのこだわり、神話や口承といった語りへの偏愛が際立っていた。

ラテン・アメリカ文学の種子はその後世界中に播かれ、日本なら中上健次の小説は明らかにその影響を受けているけど、いまその遺産をいちばんよく継いでいるのは中国の小説だと思う。そんなにたくさん読んでいるわけじゃないけど、鄭義の『神樹』や莫言の『豊乳肥臀』『白檀の刑』は中国の歴史と風土、そこに暮らす人々の肌触りを実感させてくれる実に面白い小説だった。閻連科の『愉楽』もまた、そんな系譜に属する。

『愉楽』の舞台は、河南省の山中にある受活村という架空の村。ここは明の時代に、めくらやおしやつんぼ、びっこ(訳書は原著の言葉遣いをそのまま訳している)といった村からはじきだされた障害者が流れつき、おしの老婆、受活婆のもとで孤立しながらも快適に暮らす村だった。

主な登場人物がふたりいる。ひとりは村のリーダーである芽枝婆(マオジーポー)。芽枝は若いころ紅軍(中国共産党軍)の女性兵士で長征に参加した革命戦士だったが、負傷してびっこになり受活村に居ついた。芽枝は新中国の合作社運動のなかで、どの行政単位にも属していなかった受活村を「革命したい!」と、県の下部組織として「入社」させる。

もうひとりは受活村が属する双槐県の県長である柳鷹雀(リュウ・インチュエ)。柳は地域の社会主義教育学院の先生に育てられた捨て子で、先生の死後は跡を継ぎ、順調に出世して県長になっている。柳は若いころ受活村に教育に来て芽枝の娘・菊梅とねんごろになり、彼女は四つ子の小人の女の子を産んだが、柳は菊梅と子供たちを捨てた。

20世紀終わり頃。真夏に雪が降る異変のなかで物語が始まる。双槐県の独裁者である柳が、社会主義を捨てたロシアからレーニンの遺体を買い、記念館をつくって世界中の観光客を集めようと計画する。購入資金を調達するために、柳は受活村の住民が障害故に発達させた絶技を見世物にする絶技団を結成し国中を回ることを考える。「入社」後の村の受難からそのことを悔いていた芽枝婆は、村が国や県から「退社」することを条件に絶技団の結成を認める。芽枝婆の孫娘たちも入った絶技団は成功し、県にも受活村の住民たちにも、うなるように金が入ってくる。

この小説の原題は『受活』という。中国中西部の方言で、「気持ちがいい」といった意味らしい。ほかにも方言がたくさん出てくる。方言や固有名詞には著者による注がついている。注のなかで、受活村の過去が語られる。注のなかの方言や固有名詞には、さらに注の注がつく。たとえば第3章の本文は8ページで、注は5ページ、注の注が2ページ。本文より注のほうが長い章もある。だから物語は直線的に進まない。現在と過去を行き来しつつ、物語が次々に枝分かれしていく。

注のなかで、1950年代末の大躍進政策とその後の大飢饉や文化大革命時代の受活村の歴史が語られる。それがすこぶる面白い。文革については既にさまざまに語られているけれど、飢餓によって数千万の死者を出した大躍進時代については、いまだ語られることが少ない。

この時代について、映画なら数年前に公開された『無言歌』は上海のインテリが収容所に送られてネズミも草も食いつくし、他人のゲロをむさぼって食べ、次々に死んでいく姿を描いていた。『無言歌』は中国国内で上映禁止になったが、閻連科の近作に『四書』があり、これも大飢餓の内幕を暴いたとして発禁処分を受けている。この時代を描くことはそのまま毛沢東批判に直結するから、いまだにタブーなのだろう。

この時代、芽枝婆の指導で食物を蓄えていた受活村は、「供出」「徴収」という名の合法的収奪に繰り返し見舞われる。

「生きるために強奪かい? 法も何もあったもんじゃないのう。
 何が法じゃ。完全人(注・方言で健常者の意)であるわしらが、おまえら片輪らの法なんじゃ。人間様が飢え死にしとるのに何が法じゃ。
 ……缶のガチャガチャぶつかる音が響き渡り、食糧を探し回る音が冷たく聞こえて来た。石屋が開いた扉から見ると、扉の後ろに隠してあった、缶に入れた玉蜀黍を男が見つけ出して袋に詰め替えると、物凄い勢いで玉蜀黍を掴み、口の中に詰めこんで咀嚼していた。石屋は言った。慌てんと食べるんじゃ。その缶にはネズミ用の毒が入っとるんじゃ。その男は言った。毒で死ぬのもいい。毒で死ぬほうがゆっくり飢え死にするよりマシじゃ」

レーニンの遺体を買おうとした柳鷹雀は、結局のところ党中央の幹部に批判され失脚する。孤児だった柳は勉学に励み、これまで出世の階段を順調に上ってきていた。彼の秘密の部屋には、マルクス、レーニン、毛沢東と並んで柳自身の写真が飾られている。死んだ育ての親が柳に残した紙には、社会主義教育学院の教師から順に出世していくべき階段が記され、その空白の最上段は党主席になるはずだった。

本書を読んでいて、県長として地域で絶大な権力をふるい、野望を持ってのしあがろうとする柳には、先ごろ失脚した元党中央政治局委員で重慶市書記・薄熙来の姿が重なって仕方なかった。この小説はむろん薄熙来事件以前に書かれているけれど、主人公・柳鷹雀の背後には大小の無数の薄熙来がいるのではないか。

もうひとりの主人公、受活村の芽枝婆が思い起させるのは実在の人物ではない。彼女は元革命戦士として村を「入社」させたことで村人にさまざまな厄災をもたらすのだが、その一方で村の苦悩を一身に背負う姿は、明代に村をつくりあげた伝説の受活婆とも重なる。それは例えばガルシア=マルケス『百年の孤独』に出てくるウルスラや中上健次『千年の愉楽』のオリュウノオバのような、永遠の母としての存在であるようにも思える。

そんなふうに現実と非現実、歴史と現在を往還しながら物語は進む。杖を自在に操って空を飛ぶ片足猿と呼ばれる男。5本の針の穴に糸を通す片目の女。木の葉に犬や猫を刺繍する下半身不随の女。耳から下げた爆竹を鳴らすつんぼの男。鶏の羽が落ちるのを聞きわける全盲の女。絶技団の村人たちも障害を見世物にして金をかせぎ、やがてすべてを失う。本書はふたりの主人公と、共同体からはみ出したびっこやつんぼやおしを通して中国現代史を描いた壮大な悲劇のようでもあり、哄笑を誘う喜劇のようでもある。

『愉楽』は中国で発禁にこそならなかったが、「反革命」「反人類」「反体制」「反国家」とありとあらゆるレッテルを貼られ酷評された。発禁になった『四書』の翻訳が待ち遠しい。(山崎幸雄)

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