書籍名 | よこまち余話 |
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著者名 | 木内 昇 |
出版社 | 中公文庫(320p) |
発刊日 | 2019.05.25 |
希望小売価格 | 726円 |
書評日 | 2023.11.16 |
木内昇(のぼり)という名前は書籍広告でときどき見ていた。タイトルからして、時代小説の新しい書き手のひとりなんだろうな、と思っていた。このところ時代小説からは興味が遠ざかっている。そんなとき、読み手として信頼する友人から「『よこまち余話』を読んだ?」と、この本を勧められた。
不思議な読書体験だったなあ。確かに過去を題材にしているけれど、ジャンル小説としての時代ものとは違う。エンタテインメントではないし、かといってシリアスな小説でもない。そういうジャンル分けで言えば、幻想小説やSFのような要素もあわせもっている。でもそれらのどこにも属さず、それらの間(あわい)にひっそりと佇んでいる。そのひっそりした気配が外側のジャンルだけでなく内側の小説世界、言葉のすみずみにまで立ち込めているのが素敵だ。
話は17編の短編からなっている。時代も場所も、しかとは分からない。時は明治の末から大正あたり(文中に、新しく人造絹糸ができたとある)。場所は東京。ひとつだけ現実にある地名として「弥生坂」が出てくるから、本郷か根津あたりだろうか。狭い路地の両側に立つ十二軒の長屋が舞台。路地の一方の端から石段を上ると天神様の社(やしろ)があり、もう一方の端はお屋敷の土塀に突き当たり、塀沿いに歩くと表通りに出る。
長屋の一軒に住む魚屋の息子、家業を継いだ十代の浩一と小学生の浩三の兄弟が狂言回し。長屋の端には、三十代半ばで楚々としたお針子の齣江(こまえ)がひとり暮らしで、向かいにはトメさんというおしゃべりでおせっかいな老婆がやはりひとりで住んでいる。トメさんはいつも齣江のところに入り浸っている。糸屋が注文された刺繍糸を齣江のところに届けたり、魚屋のおかみさんが齣江のもとに愚痴を言いにきたり、なんだか落語の人情噺か寅さん映画のような、小さな出来事がつづく日々の暮らしで小説は幕を開ける。そのまま短篇がいくつか進行する。
これは世話物の世界なのかと思っていると音無坂を歩く浩三の、道に落ちた自分の影が、いきなり浩三に話しかける。「おまえには、ゲンジツだけだな」。「しかし中には知らんほうがいいことだってあるんだぜ。突き詰めると、酷(むご)いだけだ」。でも、その一篇ではその後なにも起こらない。
次の一篇。兄の浩一がトメさんの長屋へ頼みごとにいくと、婆さんは留守。ふっと部屋に上がり開いた押し入れを見ると、押し入れの壁に小さな丸窓が開いている。窓の向こうの座敷に日本髪で白粉を塗った若い女人がいて、大きな目で浩一を睨んでいる。浩一は鳥肌が立ち、恐怖にかられて悲鳴を上げる。「兄ちゃん、なにしてんだよ」。弟の声で浩一は我に返る。午後、齣江の長屋に入り浸っている浩三は齣江に聞く。「『あのさぁ。トメさんはここじゃ一番古くからいるんだろう? …どっから来たのか、知ってる?…』」。齣江の答えはない。「『じゃあさ……齣さんはどっから来たんだい?』しばらく待ったが答えはなかった」。夜。トメさんは花見のために仕立てた小袖に手を通して、押し入れの丸窓の向こうに呟く。「『久方ぶりに仕立ててみたんだ。もっともあんたの頃のようにはいかないけど』」。窓の向こうの若い芸者は微笑んでいる。「『今年は花を見に行くよ。もうそろそろ、散る様も楽しめるよう腹を括らないといけないからね』」。
「雨降らし」の一篇では、正体不明の男が路地に現われ一軒一軒の門口で鈴を鳴らして店賃を集めていく。男が現れると必ず雨が降るので、長屋の住人は男を「雨降らし」と呼んでいる。同じ短篇のなか、天神様の境内で演じられる薪能で、浩三はシテの周りに同じ装束を着た何人ものシテが舞っている幻を見る。舞が終わると、周りにいたシテはシャボン玉のように弾けて消えてしまう。「音のしない花火にも似た、鮮やかで儚い光景だった」。現実に戻った浩三が周囲を眺めると、トメさんは足ばやに長屋に戻ろうとし、齣江は涙を拭いている。浩三が齣江に声をかけようとしたとき、「『やめておけ』と、影に遮られた。…『ここに集った誰のことも、放っておいてやるんだ』」。
小説のなかで、ときどき『花伝書』の言葉が引用される。『花伝書』を書いた世阿弥が完成させた能の形式に夢幻能がある。夢幻能の主役(シテ)は、現実に生きている人間ではなく、死んだ男や女の霊。霊であるシテと現実の人間(ワキ)の対話で舞台がなりたっている。小説のなかでは天神様の境内で能が演じられるが、どうやら長屋のある路地そのものが夢幻能の舞台であるらしい。SFふうに言えば、路地では彼岸と此岸の空間と時間がねじれて接しており、その通路がどうやら長屋の押し入れにある、らしい。路地には人間と彼岸の存在が一緒に住んでいる、らしい。正体不明の雨降らしは彼岸と此岸が接する場所の管理人である、らしい。
むろん、作者はそんなことは一言も説明しない。明治の東京の小さな路地のささやかな日常と、そのなかに現われる一瞬の幻を淡々と描写しているだけだ。路地に響くいろんな音や、空気の湿り具合や、石段脇の銀杏の繁りに囲まれて、中学校へ進学したいという浩三の願いや、齣江へのほのかな少年らしい思慕がいとおしい。齣江も浩三を「浩ちゃん」と呼んで可愛がる。
小説の後半になって、ひとりの男性が登場してくる。中学校に進学した浩三の先輩である遠野さん。浩三が仲良くなった遠野さんを路地へ連れてくると、雨降らしもいる。長屋から顔を出した齣江が浩三と一緒にいる遠野さんを見る。「『あ……』齣江がなにかを云った。口は動いていたが、言葉は聞こえない。うまく声にならなかったのかもしれない。息を整え、今一度口を開こうとした。そのとき、雨降らしが彼女の腕を強く掴んだのだ。そうして耳元で囁いた。『そこから先は、御法度です』」。
次の一篇で浩三はトメさんから、天神様の能に遠野さんを連れてくるよう命じられる。自分の影が浩三に語りかける。「『能には行っても、彼らに踏み込んじゃあ駄目だ』『彼岸の世界に関われば、酷いことになる』」。能が始まる直前、トメさんは浩三を外へ連れ出して齣江と遠野さんをふたりきりにする。その翌日、トメさんは長屋から姿を消した。トメさんという老婆がいたことを、長屋の誰もが覚えていない。
これ以上書くとネタバレになってしまうので、このへんでやめよう。といって、この小説は最後まで読めばすべてをきれいに説明してくれるわけではない。逆に、読み終わってもわからないことだらけと言ってもいい。説明しないことで物語に余韻をもたせ、読者にあれこれ想像させる。
やがて来る未来で、齣江と遠野さんはどうやら結婚して幸せな日々を送ったらしい。でもそれなら、齣江が彼岸から路地へと姿を見せたのはなぜなのか。さまざまに想像できるけれど、いずれにせよ「死」が介在していることは確かだろう。それがどのようなものであったかは、作者はかすかな手がかりさえ与えてくれない。
ただ全編が柔らかな日本語で書かれたこの小説のなかで、「国力」とか「時世」といったいかめしい漢語が数カ所だけ出てくる。そうした漢語が気になるのは、現在に生きるわれわれはその後のこの国の歩みを知っているからだろう。ただ、そういった時代の流れはまだこの小説のなかに押し寄せていない。今の読者から見れば束の間の、あたたかい陽だまりのようなこの路地の空気と長屋から聞こえてくる「浩ちゃん」の呼びかけに、しばし耳を澄ませていたい。(山崎幸雄)
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