ヒマ道楽【坪内稔典】

ヒマ道楽


書籍名 ヒマ道楽
著者名 坪内稔典
出版社 岩波書店(224p)
発刊日 2016.12.10
希望小売価格 2,052円
書評日 2017.02.18
ヒマ道楽

団塊の世代である私はフルタイムの仕事を卒業して4年。多少の仕事は有るものの、ボランティア活動、街道歩き、陶芸、読書、ジャズといった趣味で日々を過ごしている。モノ忘れを補う適度な緊張とゆるく流れる時間の混在した生活を楽しみながら、ある日、散歩の途中で「ほんとうはヒマなクセに。お忙しいアナタに 現代ストレス解消法!」というサブ・タイトルに惹かれて本書を手にした。

著者の坪内稔典は1944年生れ。学生時代から俳句を作り続け、近代日本文学、特に正岡子規の研究者となって詩歌を研究してきた人。本書は産経新聞大阪本社版に連載していた「モーロクのススメ」という2013年から2016年のコラムからの抜粋であり、フルタイムの仕事を卒業して二年目の72才である。「金を稼ぐ本職」から離れ、時間の制約からは解き放たれた生活による人生のリズムの変化期におけるエッセイである。

奥さんを彼女の俳号から「ヒヤマさん」と呼び、自らは「ねんてん」と称している。こうした、家族の距離感も何やら戸惑いと楽しさの共存の様でもある。そうした日常風景とともに、詩表現(俳句・和歌・詩)に触発された各コラムからは、まだまだヒマをヒマとして楽しむネタが多いということを教えてくれる。タイトルの意味をこう語っている。

「『ヒマ道楽』とはヒマ(暇)を徹底して楽しむことだ。ヒマとカタカナで書いているのは、この言葉に肯定的、積極的な意味を持たせたいから。ヒマは存分に楽しんで良い。いやヒマこそは人にとって黄金にまさる至高の時空なのではないか」

こうした極めて前向きな「ヒマ」論にヒマな諸兄も元気づけられることになる。同年代の人からの「ぐずぐずと何のために生きているのか迷っている」との相談に対し「ぐずぐず仲間になりましょう」と即答しているように、ねんてん氏は現実をまず素直に受け入れる優しさが信条なのだろう。そうは言っても、理屈っぽそうに語るバックデータもそろえているのが学者らしいところである。例えば、鷲田精一のこんな文章を紹介しつつ、「ぐずぐず」論を展開する。「『ぐずぐず』に思い悩むことは、わたしたちが手放してはならない権利の一つである。……時間的猶予を与えられる権利と言ってよい」

この様に、老いについてはポジティブだ。しかし、それも家族、特に夫婦の場合は夫の定年とともに新たな緊張を生むのが定番である。「叱られ、笑われ、馬鹿にされ」と題された文章では、加齢とともに、自分の行動が遅くなった分、時間のスピードが速くなってきているので、「電車に慌てて乘らない、変わりかけた信号で渡らない、さっさと寝る、といった習慣を身に付けた」と言っている。しかし、「ヒヤマさん」と一緒に外出すると夫婦間のペースの違いが明らかになる。「あっ黄色とカミさんはさっさと行く、あなたはのろいのよ、渡れたわよと叱られる」。これは我が家では逆で、私がせっかちなものだからカミさんのペースを考えずどんどん横断歩道も行ってしま。その結果、思いやりの無さを叱られるのだ。しかし、考えてみると、どっちにしても亭主が叱られているわけで、この年齢の夫婦のお互いの立ち位置の難しさは何処の家庭でも同じということのようだ。

結果的には、ねんてん氏は若さと老いを複合的に抱え込んだ人間になりたいとの意見の様だ。孤独癖、立腹、無計画などがねんてん氏の考える若さであるが、これらが老成と混じり合うとなにやら厄介な老人が浮かび上がってくるではないかといささか心配になる。それでも、あるがままに自らの老いを受け入れることで、老人なりのはじけた自由度が広がるという面白さも多いのだ。こんな俳句が紹介されている。

 秋刀魚焼くアルトサックス聴きながら  麥丘人(80才の時の句)
育たなくなれば大人ぞ春のくれ     池田澄子(70才の時の句)

こうした、より自由な句形を許容する現代俳句の流れは戦後の金子兜太などに代表される人達によって進められた活動である。私が今まであまり接することのなかった感覚のもので、技巧より感性、自由溢れる表現と流れるリズム感、加えて洒脱というかナンセンス、といったものを集約して五・七・五がそこに有る。一方、戦後すぐに桑原武雄が発表した「第二芸術論 - 現代俳句について」は俳壇に一石を投じたが、その趣旨は「俳句は他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい。……芸術とは、作品を通して作者の体験が鑑賞のうちに再生産される」ものとして芸術としては二流と断じたのだ。

一方、ねんてん氏は「俳句とは伝統的に作者を隠すというか、作者はどうでもよい文芸である。その例が句会である。句会には無署名で作品が出され……表現の技が競われる」。どちらにしても、第一とか第二とか言うこと自体が間違っているのだろうなと感じつつ読んでいると、ねんてん氏はキッパリと言う「俳句は消閑の具とは暇つぶしだが、暇つぶしに夢中になるというのは、それがなんであれ、とても素敵だ」。そう割り切る著者の句はとても挑戦的である。

横ずわりして水中の秋の河馬  稔典

この句に対する「君、このごろ変態ちゃうか」という友人の評にも、ねんてん氏は水の中のカバの軽やかな動きを語り、尻をこちらに向けて横ずわりしている姿のエロチック感を力説してやまない。なにしろねんてん氏は河馬が好きなのだ。私も白熊の孤独感や詩的な眼差しが好きだから、河馬が好きな人をとやかくいう資格はない。
もうひとつ、ぼんやりと乗っていた電車の中で出会った尼さんたちを見て作ったという句。

尼さんが五人一本ずつバナナ  稔典

この句に見られる様な、自由な表現は面白いという感覚はあるのだが、さすがに自分でそうした句を作れるかと言われるとハードルはかなり高い。しかし、こうした句は読み手の感性が問われるものだと思い至る。そばを例にとれば、せいろは料理として完成形が食べる人の前に出てくるわけではなく、食べる人が口の中でそぱと汁を合わせて「口内調理」するという言い方があるが、まさに食べて、読み手が豊かな発想や力量も問われている。こうした俳句の楽しみ方も様々である。同様に、言葉あそびや詩の楽しみかた等、言葉にまつわる話題に興味は尽きない。いずれにしても、著者も読者たる私も「ヒマ」なものだから、のんびりとした時間の中での読書になるのは必然である。

エピソードの一つに厄年の話が悩ましい。「孫と寺に行ったところ『もう厄年がないね。いいね』と言われ、やや憮然として厄年の看板を眺めていた。60才を過ぎると厄年が無くなるのは耄碌というか、もはやどうでもいい人間として見られているのだろう。つぎに神社に行くと、厄年とは別に祝いの年齢が示してあった。古稀、喜寿である。……うれしいより、いやな気分になった。厄年がなくなった代わりに、これからは褒め殺しか! どうしても捻くれてしまう。人生50年の時代に出来た、こうした考え方は現代の人生の節目とか智慧のようなものが出来ていない」

まだまだ、ねんてん氏と言えどもまわりからのストレスを感じているということだろう。「ぐずぐず」を受け入れ、体力の低下もポジティブに捉えて、自分の状況をそのまま受け入れることで自分と周りの両方に心情的なのりしろが広がっていく。自分が世の中に、どう役に立つかといった背伸びや理屈よりもやりたいことをやり、できることをやるという生活スタイルによってストレスも解消されるという著者の言い分ももっともだ。しかしそれはまた、家庭的、経済的、健康的といった側面で、ある種のゆとりのある人々の中の選択肢であることは確かだと思われる。(内池正名)

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