「元号」と戦後日本【鈴木洋二】

「元号」と戦後日本


書籍名 「元号」と戦後日本
著者名 鈴木洋二
出版社 青土社(302p)
発刊日 2017.08.22
希望小売価格 2,052円
書評日 2017.12.17
「元号」と戦後日本

今上天皇の退位に関する皇室会議の報道を聴きながら、この原稿を書いている。平成という時代はどんな時代であったのかを語る場が多くなるはずだ。同時に来年、2018年が明治維新から150年であることを声高に語る人達もいる。歴史を「元号」で語る意味は多くの側面を持っている、その一つの切り口を本書は提示している。著者の鈴木洋二は昭和55年生まれ、歴史社会学を専門とする社会情報学博士。東京大学のHPを見てみると、「メディアやコミュニケーションに関わる社会現象・文化現象、そして情報社会における諸問題を「社会情報」という視点から学際的に分析する新しい学問」とある。

普段の生活で目にふれる「元号」は年号としての役割だけでなく企業名や大学名など「元号」と結びつく表象は極めて多いことに気付く。本書ではその「元号」を時代区分のインデックスという意味に限定して定義した上で、「戦後」との対応関係で「元号」がどのように機能しているのかを本書で掘り下げている。

「平成が30年近く過ぎたが『平成文学』や『平成史』ということばが明確な像を結ばない。一方、『明治人』や『大正デモクラシー』『昭和一桁生れ』といった言葉を用いると、その時代毎の雰囲気や空気までも想像できるのは、我々も体感している。……『元号』から派生する、こうしたイメージや見え方は、いずれも『戦後』という時代区分に基づいているからこそ可能なのではないか」

時代を表す記号である「元号」がどのように明治以降の近代日本の歴史意識に作用するのか。その鍵になるのが「戦後」という時代区分にあるとしているのだ。鈴木の言う「戦後」とは1945年8月15日・「敗戦」をゼロ地点とする時間の積み重ね。この戦後という概念の中で歴史の補助線である元号と西暦に関して大きな変化が生じたトリガーとして、1979年の元号法を挙げている。この法律の施行を境に、新聞や雑誌では元号年(西暦年)から西暦年(元号年)という表記に変わっているという指摘だ。

元号の歴史を振り返れば、西暦645年の「大化」から今上天皇に至る125代で246回の改元が行われている。その元号については明治の改元とともに「一世一元」が明文化されて大日本帝国憲法と旧皇室典範によって法的根拠を与えられたのが1868年。「戦後」日本国憲法では改元だけでなく元号そのものが法的根拠を失った状態にあったが、1979年の元号法案により法的根拠を得たという経緯など、元号に関する基礎的理解をベースに議論は進む。

著者が取り上げているのは、①1956年に起きた遠山茂樹を中心として書かれた岩波新書「昭和史」に関する論争、②1951年に信夫清三郎によって提唱された「大正デモクラシー」という術語に関する考え、③1968年の「明治百年」時の対応、という三つの観点が主題になっている。

「昭和」という「古くささ」「懐かしさ」「レトロ」を表す記号は「昭和」と「戦後」との対比によって形づくられてきたが、それを端的に表す事例として、1956年に刊行された「昭和史」(岩波新書)を契機にした論争を取り上げている。著者の遠山茂樹の立ち位置は「昭和」と「戦前」を同義語として扱っている点に鈴木は注目している。同時に、この年には「もはや戦後ではない」という言葉が流行語になっていて、昭和を戦前として、戦後との異質性を強く示しているこの二つの言説が共存していたことになる。「昭和史」論争の発端は文芸評論家である亀井勝一郎が「文芸春秋」1956年3月号に掲載した「現代歴史家への疑問・歴史家に「総合的能力」を要求することは果たして無理だろうか」と題する「昭和史」に対する批判論文だった。

亀井は「この歴史には人間がいないことである。『国民』という人間不在の歴史である。……昭和の三十年間を通じて、その国民の表情や感情がどんな風に変化したかを描けていない」と批判した。これに対し遠山は歴史とは「科学」であることを主張した上で、「歴史における人間とは戦争秘史と銘打って語られる裏面史の暴露物でしかない」と反論している。また、昭和という元号で歴史を区分することは科学的でないという意見に対して「一般の読者にとっては、明治というのは非科学的な時代区分であっても、明治の代というのは国民にとって一つのイメージがあるし、それを『昭和』で明らかにする」としている。この論争の意味づけは歴史学の世界の内側で行われたのではなく、その外側、すなわち文学論争として始まり、論じられたことがポイントとなっている。こうした「より広い範囲に影響を及ぼす社会的な議論」に接すると、時代の勢いと自由さが感じられる。

二つ目の論点は、「大正デモクラシー」と「戦後民主主義」という言葉の相似性の議論である。「大正デモクラシー」とは1951年に信夫清三郎が語り始めた言葉だが、「大正民主主義」でも「大正民本主義」でもなく、「大正デモクラシー」という元号とカタカナの組み合わせで造語した意味を問うている。信夫はもともと「大正デモクラシー」という言葉にポジティブな意味を持たせていない。「大正」という旧体制と新興概念とのハイブリッドの意味を探ると、信夫は戦前治安維持法事件で検挙され、大学の助手として研究の道を断たれた彼にとって絶対主義=天皇制の権力は「デモクラシー」を与えてくれるような優しい存在では全くないという意識の現れであろう。

その後、1960年代は戦後民主主義の形骸化の危機意識が沸き上がる中、丸山真男の「戦後民主主義とは占領民主主義という『虚妄』としても、大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』に賭ける」といった議論に代表されるように、おのおのが自分達の見たいものや、希望を託したものを好き勝手に詰め込める大きな箱こそ「大正デモクラシー」と「戦後民主主義」であった。その類似性を鈴木は詳細に語っている。

三つ目の論点は「明治百年」という言説である。「戦後」の焼け野原からの復興に際して「開国」や「富国強兵」といった言葉から「明治」の黎明期が見いだされるのは当然である。司馬遼太郎に代表される輝かしい「明治」を近代日本の模範として、そこに戦後の道程を重ねる論者は多い。1956年には桑原武夫は「明治の再評価」という文章を朝日新聞に寄稿している。その桑原もその後「大正史」の必要性を語っていることを考えると、現代を明治以来百年の連続と見るか、敗戦によって再び見直された歴史の一時点とみるのか意見は分かれる。

「明治」と「戦後」の対象性・連続性の議論においては「西暦」や「大正」という別の補助線によって補完・形成されていると見ることが出来る。1968年「明治百年」という日本国内しか通用しない時代区分の国家行事を実行しつつ、その2年後の1970年には日本万国博覧会というグローバルなイベントを行う。この非対称性の対応を何のハレーションも起こさず国家も国民もこなしている事実は興味深いとしている。よく言えば柔軟、ある意味なんとも恣意的な姿が見えてくる。

「昭和=戦前」と「戦後」という対比、「戦後」の相似形としての「大正」、「戦後」起源としての「明治」という三つの視点は「時代」とともに変容しており、「戦後」という括り方ももはや一義的な理解や合意を得ることは難しい時代になって来たと思う。昭和45年以降、特に平成の時代は元号による時代区分が失われており、同時代意識だけでなく、過去や未来を含む歴史意識にも何かしらの影響を及ぼしているという実感はある。

自分を含め、戦後生まれ(団塊の世代)が古稀を迎え、「戦後」の意味づけは新たな定義を迫るに違いない。同時に明治150年を語る人達は、明治を評価しつつも昭和ファシズムを否定している論点もあれば、明治からの全ての時代を肯定したい勢力が垣間見えることも事実。近代において日本では旧体制を全否定する革命が起きたことはない。それゆえ、1868年からの近代も1945年からの戦後も、ともに流れの中にある。「昭和」に比較するとあまりにフラットな感覚でしかない「平成」やその後の「元号」の有り方は大きく変化するに違いないと思う。もう一度、歴史の中に自分を置いて考えてみようと思わせる挑戦的な一冊であった。(内池 正名)

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