満洲国グランドホテル【平山周吉】

満洲国グランドホテル


書籍名 満洲国グランドホテル
著者名 平山周吉
出版社 芸術新聞社(568p)
発刊日 2022.04.20
希望小売価格 3,850円
書評日 2023.01.15
満洲国グランドホテル

最初に断っておくと、満州国グランドホテルというものが実際にあったわけではない。このタイトルは1930年代のアメリカ映画「グランドホテル」から来ている。映画は、ベルリンのグランドホテルに偶然泊まり合わせた何人もの客たちの人生模様を描いて、以後、同じ趣向の映画を「グランドホテル形式」と呼ぶようになった。つまり、満洲国という大きな舞台に集まり散じた多くの人びと、といった意味あい。

満洲国は、中国東北部を占領していた日本陸軍関東軍の主導で清朝のラスト・エンペラー溥儀を執政に立てて1937(昭和7)年に建国され、1945(昭和20)年の敗戦とともに消滅した。国家として国際的に広く承認されたわけでなく、日本の「傀儡国家」というのが歴史的に定まった評価だろう。

この満洲国に関しては当事者から歴史研究者まで、数えきれないほどの単行本が刊行されてきた。小生が読んだなかでは山室信一『キメラ 満洲国の肖像』(中公新書)が、「五族協和」「王道楽土」をスローガンにしたこの国家の奇怪な実態をえぐりだして実に面白かった。もっとも山室は歴史研究者だから、満洲国をキメラという怪物になぞらえ、その構造(頭は関東軍、胴体は天皇制国家、尾は中国皇帝)を史料を駆使して冷徹に分析している。

『満洲国グランドホテル』は、それとは対照的なアプローチ。『キメラ』が満洲国という歴史的存在を上空から俯瞰する方法を取っているとすれば、本書は超望遠レンズを使って満洲国という舞台で踊った一人ひとりの顔、その行動や肉声に迫ろうとする。その素材として、著者は古書店街を歩いてゾッキ本として売られていた回想録や手記、資料類を集め歩いた。それらは研究者が扱うには史料批判が必要だが、少なくとも当事者が主観的に何を考え、どう行動したか、あるいはどう弁明しているかは分かる。そんな素材を基に「一人ひとりの『満洲』の細部を積み重ねていったら、どんな満洲国が見えてくるか」と、平山はその意図を語っている。「雑文家」と称し、業界では古書収集で名の知れた存在らしい著者の面目躍如といったところだ。

本書は本来なら上下二分冊になるほどの大冊で、36章に分かれ36人の人物が登場する。帯のキャッチからその一部を紹介すると、「新しき土 原節子」「殉職警官 笠智衆」「越境将軍 林銑十郎」「満蒙放棄論者 石橋湛山」「満洲の印象 小林秀雄」「満州事変の謀略者 板垣征四郎」「植民地の大番頭 駒井徳三」「小澤征爾の母 小澤さくら」その他、その他。

石原莞爾、甘粕正彦、岸信介といった満洲国を語る上で欠かせない大物ははずし、その周囲に出没する軍人、官僚、企業家、政治家、俳優、文学者、新聞記者、大陸浪人が取り上げられる。「五族協和」の理想を信じて新天地に身を投じた者もいれば、本土よりゆるい組織と金銭の間を泳ぎまわった怪しげな人間もいる。満鉄、満映といった重要な脇役も随所で顔を見せる。

例えば小坂正則という男。新聞記者と満洲国秘密警察職員の二足の草鞋を履き、大物たちに取り入って関係を仲介したり、金を動かしたり。本人は「満洲の廊下トンビ」と自称した。22歳で満洲に渡った小坂は友人のつてで警務司偵輯室(ていしゅうしつ。満系要人の動静を探る情報機関)の職員となった。同時に地元新聞にもぐりこんでニュースは新聞に、情報は偵輯室に、の二股生活を送る。彼は機密情報を求めて満洲の要人との関係をつくりあげた。満映理事長・甘粕正彦、満州事変の功労者・土肥原賢二、満洲国のトップ官僚・星野直樹、阿片売買の里見甫、張作霖を爆殺した河本大作、関東軍司令官・梅津美治郎といった面々。彼のふところは豊かで、「月収三千円」。出所は満映、警察、政府、国営企業だったそうだ。回想録には夜の話もふんだんに出てくるというから、宴席の「トンビ」ぶりも堂に入っていたんだろう。小坂は戦後も「大蔵省の廊下トンビ」と称して政官界の裏側を遊泳した。

もう一人、例えば衛藤利夫。東京帝大選科を出て東大図書館の職員として働いていた衛藤は1919(大正8)年に満鉄入りし、満鉄奉天図書館長として多くの貴重書を収集し、満洲に関する著書も出版した。同時に、五族協和を信ずる「国士」でもあった衛藤は満洲国地方官吏を養成する大同学院講師として、青年教育に情熱を燃やす。しかし石原莞爾らの謀略による柳条湖事件の真相を知るに及んで同志であった石原と決別。息子の瀋吉(政治学者)は、こう記す。「王道楽土の夢をひたすら追い求め……その夢を崩してゆく現実に対して憂悶と憤激の情耐え難きものがあった。……図書館長を罷め、東京に移った。……満洲国に絶望したこともその一半の原因をなしている」。

ほかにも印象的な人物は多い。満映の『迎春花』に出演したことから満洲新聞社長だった縁戚の男性と不倫の末に結婚し、敗戦直後に自殺する甘粕正彦の最後を知る小暮実千代。満洲人朝鮮人が開拓した土地へ、彼らが追い払われた後に入植した日本人開拓民に、「立ち退いたものは、どのようにしてどこへ行ったのであるか?」と聞く作家の島木健作。登場人物のなかで小生が唯一会ったことがあり、著書も愛読した「少年大陸浪人」内村剛介。本書に収められた回想や記録は五族協和と言いながら他の四族(漢満蒙鮮)の姿がほとんど見えず、いわば「日本人が見たかった満洲」といったトーンに貫かれているが、例外的に漢人や満洲人と親しくつきあった満洲青年連盟の小澤開作。

彼ら36人が満洲に残した足跡は戦後の価値観で割り切ることのできない二面性や陰影に富んでいて、「グランドホテル」のタイトルに相応しい。引用が多く彼らに縦横に語らせながら、時折著者が差しはさむ短いコメントもワサビが効いている。

ところで。ページを繰りながら、本書に登場してもおかしくないひとりの人物のことが気になっていた。その人物とは、写真家の木村伊兵衛。小生は木村の写真集とエッセイ集を4冊、編集したことがある。ちょっと脇道にそれてみたい。

木村は、満洲国を三度訪れて写真を撮っている。一度目は1936(昭和11)、二度目は40(昭和15)年で、二度とも満鉄の招待だった。三度目は42(昭和17)年で、このときは参謀本部の息がかかった東方社という組織の写真部長として訪問している。東方社は15か国語の対外宣伝雑誌『FRONT』を発行しており、木村は濱谷浩ら10人の写真家を率いて撮影に当たった。この大部隊が取材した写真群を素材に、翌43(昭和18年)3月に『FRONT』第5・6合併号(通称・満洲建設号)が発行された。

興味深いのは、この『FRONT』の2か月前に木村の『王道楽土』(ARS刊)という写真集が刊行されていること。『王道楽土』は、以前に満鉄に招待された二度の取材で撮られた写真で構成されている。撮影時期と刊行時期に数年のズレがあり、その間に太平洋戦争が始まっている。戦争前(といっても日中戦争が戦われていたが)に撮影された写真が対米英戦争のさなかに刊行されたわけだ。デザイン、つまり写真を選び、編集したのは二冊とも戦後のデザイン界を牽引した原弘。

そこから、ひとつの疑問が湧いてくる。なぜ撮影から何年もの時間が経過した後、しかも『FRONT』満洲号にぴたりと時期を合わせるように『王道楽土』は刊行されたのか。そのいきさつを木村も原も語っていない。が、こう見てくると、ふたりにとって『FRONT』満洲号と『王道楽土』が一組のセットとして考えられていたのではないか、と思えてくる。

『FRONT』は物資が欠乏しはじめた当時としては異例の、上質紙を使った大判グラビア印刷。ふんだんに写真を使い、モンタージュや観音開きを駆使した豪華なビジュアル誌だった。誌面全体から、五族と白系ロシア人が協力して農業や石炭採掘、製鉄などの産業を興し、関東軍と満洲軍が国境を守る、というメッセージが伝わってくる。木村の写真も素材の一部として、原によって切り刻まれている。当時の欧米やソ連の、『LIFE』などと比較しても引けを取らない国際水準の、その意味で見事なプロパガンダ雑誌だった。

一方、『王道楽土』は満洲国に暮らす五族と白系ロシア人の生活を撮影したスナップショットとポートレートを中心に構成されている。写真集の巻頭で、木村はこんなふうに書いている。「満洲国の実情から推して、余りにも生ぬるく歯がゆい感じがするかも知れません」。この言葉が何を意味しているのかは、実はよく分からない。ひとつの解釈としては、戦争で緊迫する社会情勢のなかに提出されたこれら写真群があまりにも日常的な空気に満ちていることへの弁明、だろうか。『王道楽土』とは現在からすればぎょっとするタイトルだが、これが「五族協和」して平和な暮らしを実現した国の姿だと、満洲国のスローガンに沿った写真集と見ることができる。

とはいえ、木村や原が「王道楽土」や「五族協和」といった言葉をそのまま信じていたとは思えない。東方社は理事に林達夫や中島健蔵といったリベラリストが集まり、スタッフには元共産党員やシンパもいた。参謀本部傘下という看板を隠れ蓑にした、自由主義的な知識人の避難場所といった組織だったからだ。木村も原も、その空気のなかにいた。

改めて写真集を見てみる。すぐに気づくのは、『FRONT』と対照的に写真のどこにも軍人や戦争の影がまったくないこと。政治的なものとして唯一、張景恵総理の肖像があるが、この本の構成要素のひとつである人物写真の一枚と見ることもできる。もちろん満洲国は関東軍の絶大な影響力の下にあった。でも写真はフレームを限って現実の一部を切り取るものだから、何をフレームの内に入れ何を外に出すかは、選択それ自体を強制されないかぎり写真家が自ら選ぶことができる。これはまったくの推測になるが、木村はあえて軍人や軍隊を被写体にすることを避けたように思える(傍証として、上海事変後に外務省から派遣され上海に行ったときも、戦場や軍を撮らず街ばかり撮っていたとの証言がある)。この本の写真群からは、木村のそんな姿勢が浮かんでくる。

そこで『王道楽土』というタイトルをいったん頭の外に出して、これらの写真群を見てみる。そこに写っている人々や風土から受けるのは、木村がドキュメンタリストとして沖縄や、戦後の秋田を撮った写真群と共通するものがあるという印象だ。それは木村の「報道写真家」としての姿勢とも関係していよう。木村のルポルタージュは、あらかじめテーマやストーリーを設定せず、「型にはめるよりも、体当たりで人間を描き出す」(「私の写真生活」)姿勢に特徴がある。テーマや物語に沿って写真技術を使ったり構成したりしない。

言葉を変えれば、ぱっと見に何を訴えようとしているのかよく分からない写真。そこに写っている被写体が一方向の意味に収斂せず、いくつもの解釈を許す多義的なものになっている、とも言えようか。ある評論家が木村の写真を「『意見』のない写真」と評したが、日漢満蒙鮮の五族や白系ロシア人が(背後にどういう政治的問題を孕んでいるかはともかく)満洲という風土のなかで日々の暮らしを淡々と営んでいる姿が前面に出て、そこから「国土建設」とか「戦争遂行」といった勇ましい気分が喚起されることはほとんどない。

一方に、国際的に見ても先端的な撮影・デザイン技術を駆使してつくられた国家宣伝の『FRONT』。他方に、満洲国の軍人と軍隊の影をまったく感じさせず、そこにいる人びとだけが写る『王道楽土』。木村と原が中心的役割を果たしてほぼ同時に刊行された2冊を置いてみると、『王道楽土』の「生ぬるく歯がゆい感じ」は木村と原が意図した結果なのではないか、という気がしてくる。

それは別に「抵抗」というほどのことではないかもしれない。『FRONT』の国威発揚的な写真とは別に、自分は満洲をこのようにも見たのだ、という証。それをどう評価するかはともかく、そのような二面的な姿勢が木村の戦争への対処の仕方だったように思える。戦後、木村はこれらの仕事について「反省すると共に」「精神的な苦痛を、いやという程味わせられた」と書くだけで具体的には語っていない。原も詳しくは語っていないようだ。

ただ、戦前と戦後の木村の写真を眺めていて気づくことがある。戦前の木村伊兵衛は東京下町のスナップショットやスナップ的な人物写真で名を上げる一方、プロフェッショナルな写真家として依頼主の求めに応じ、高度な撮影技術を駆使して広告写真や、対外的に日本を紹介するさまざまな写真を撮っていた。現代的な写真とデザイン、印刷の勃興期に、優れた技術者として腕をふるった木村と原。その行きつく先が国策雑誌『FRONT』だったとも言える。

戦後の木村の写真を見ていくと、後者の系列に属する写真はごく少ない。これも想像になるけれど、木村はプロパガンダにつながった『FRONT』の技術とスタイルを封印して、自分の資質にのみ忠実に写真を撮っていこうと決心したのではないか。その資質がどんなものだったかは、戦後に目指すべき「報道写真」の例としてユージン・スミスでなくアンリ・カルティエ=ブレッソンを挙げるところからもうかがえる。『王道楽土』は、木村のそんな資質が随所に顔をのぞかせる写真集になっていた。

……と、脇道がずいぶん長くなってしまった。木村伊兵衛の満洲も、『満洲国グランドホテル』の登場者と同様、複雑な陰影を帯びている。人は生まれる時と場所を選べない。真っ白でも真っ黒でもなく、多くの人間がグレイな生を生きることを強いられた時代。そんなことまで考えさせられる。『満洲国グランドホテル』は、そういう喚起力を持つ本だった。今年度の司馬遼太郎賞受賞作。(山崎幸雄)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索