書籍名 | めざせ! ムショラン三ツ星 |
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著者名 | 黒栁桂子 |
出版社 | 朝日新聞出版(236p) |
発刊日 | 2023.10.20 |
希望小売価格 | 1,650円 |
書評日 | 2024.04.15 |
著者は全国で20名しかいない国家公務員の「法務技官・管理栄養士」として活動している。刑務所では受刑者に対し給食を提供しているので「栄養士」が居て当然だが、調理師が給食を作るのではなく、受刑者たちが自ら作業として給食を作っているということに驚ろかされた。通常、学校や病院などの栄養士の仕事は献立の作成、食材の発注、出来上がった料理の確認といったことだが、刑務所の管理栄養士の仕事は献立の作成、食材の発注に加えて、週に1~2回は受刑者と一緒に炊場(炊事場)に立って調理指導も行う必要がある。炊場には刑務官が立会い、同時に監視カメラでも映像と音で常時監視されているとはいえ、当初は犯罪者と直接話したり、教えるという関係は怖いと思っていたという著者の感覚はもっともだ。
受刑者と管理栄養士という、まったく異なった立場ではあるものの、ある時は同じ釜のめしを作る仲間(一緒に食べるわけではない)、ある時は調理を教える教師と生徒、ある時は調子に乗った言動を説教する母親と息子といった様々な場面が描かれている。この様に「食」に係わる場面から刑務所生活を描いてみたいと思ったことが、本書を書くきっかけだったという。簡単に作れて、安くて、美味いメニューを考え、改良してきた刑務所給食の現状を著者の造語である「ムショラン」の三ツ星獲得も目の前と宣言している前向きさが良い。
考えてみれば、私も刑務所に入れられたこともなければ、管理する側としても刑務所に入ったことは無い。私の刑務所に関する情報は映画や小説といったフィクションの世界でしかないので、管理栄養士からの目線での「食」にまつわるトピックスは初めて知る事柄ばかりで、未知の面白さとともに、管理栄養士の仕事の苦労にも気付かされる一冊だ。
著者が働く事務室から刑務所内の炊場に行くまでに8ヶ所の鍵のかかる扉を通るとか、緊急用の呼子(ホイッスル)を常に持ち、ボールペンは受刑者に奪われると武器にもなることから所持が禁止されている等と聞くと、緊張感漂う職場であることが良く判る。また、火を使い、刃物を使う炊場での作業を任される受刑者は反抗的でないとか、情緒不安定でないといった点からも厳しく選別され、刑務所の中で一番頭を使い、体力も使うことからも炊場の作業報奨金は刑務所内の他の作業場に比較して高く、「延長作業食」と言われる残業おやつが出るという特典まである。そのおやつの予算は一人40円だが、著者は自家製のブレンドミックス粉やあんこを作ることで、コスト内でミスド2個分ぐらいのドーナッツの開発に成功。受刑者からの著者の評価は随分上がったという。ちなみにこのドーナッツはムショランだけに「獄旨ドーナッツ」と名付けられている。
こうした炊場の給食の重要な点として紹介されているのが、料理の量や大きさなどに関する「平等」「公平」である。炊場から「困ったことが起きた」と連絡が有って行ってみると、厚焼玉子を20等分にすることが難しいとのこと。偶数は切り易いが最後の5等分が難しい。受刑者から、あいつの卵の方が俺のより大きいなどと文句がでるのが嫌なのだろう。栄養士さんに切ってほしいと要求されたこともあるという。また、八宝菜は特に気を使うという。白菜などの具材は均等な重さだけでいいのだが、最重要具材のウズラの卵ばかりは各人の皿に一つずつキッチリ入っていなければいけない。また、鳥のから揚げの具材は全体の重さで業者から納入されるので、個々の肉の大きさは均等でないため、全て一口大に切ることで平等を保つといった話を聞くと、家庭の食事では盛り分け方のいい加減さが許容されていることにホッとするばかり。
一方、法律上の規定が細かく定められていることもあり、主食の麦飯も一膳ずつ台秤で重さを計って刑務官の「ヨシ!」と確認の声が配膳室にこだまするという光景が日常。それだけでなく、刑務所の主食は麦飯(米7・麦3)で精米率は0.93とまで細かく決められているし、一日のカロリー数は刑務所内の作業種類によって立ち仕事は1600kcal、座り仕事は1300kcal、居室で過ごす受刑者は1200kcalと定められ、身長180cm以上の場合は主食の量が加算されるという細かさである。
そんな制約の多い中でも、新しいレシピ開拓の挑戦も紹介されている。愛知県の学校給食から始まった「いかフライレモン風味」は、受刑者たちが娑婆に出たら自分で作ってみたいという声が一番多いということで、レシピが掲載されている。また、コロナ禍で給食業務停止の可能性も高くなり、非常食としてカップ麺や缶詰のバンといった食材の備蓄が進んだが、同時にこれらを使用したリメイク・メニューの開発話や備蓄カップ麺の賞味期限切れ対策と言いながら、美味しい年越し蕎麦を提供することができるようになったというのも、栄養士としての調理方法の知恵の結集だと思う。
料理をしたこともない受刑者が多いので、献立カード(レシピ)の記載表現も誤解が起きない様に記載に苦労する様だ。例えば、「一口大」といった表現ではなく、「1x5cm短冊切」といった表現を使ったり、「みょうがのみじん切り」と書いておいても、みょうがの皮はどこまで剥くのかといった質問も来ると言ったように、多様な生活体験の受刑者を考えると、一般常識で表現していては正しく伝わらないとともに、調理指導で作業中の言葉遣いの指導も重要なコミュニケーションとしている。
こうした受刑者たちの調理作業経験は、公的調理師免許取得の際の実技経験期間として算定されるとともに、受刑中でも調理師免許試験を受験できるという。再犯防止の観点からも刑務所内での教育・体験の多様性は重要な観点だと思う。
受刑者の仮釈放が決まったあとに、社会に戻る準備として各種カリキュラムが用意されているが、その一つが健康管理で「ヒトの身体が食べ物で出来ていることは紛れもない事実だし、思考や行動を司る脳を作るのも食べ物である。食事を単に空腹を満たすとか、簡単で安ければ良いというものではないこと」を理解してもらう。刑務所では生活習慣病を予防しつつ、規則正しい生活を送っているので、殆どの受刑者は釈放前の指導の時点で理想的な健康体重になっているという。けして刑務所の食事は「くさいメシ」ではないという著者の力説する姿が見える様だ。
「食べることを楽しいと考えて、将来健康診断で注意されたら、昔、栄養士さんに教えてもらったと、今日の話を思い出してほしい」という思いが、やりがいの様だ。
栄養士の立場では、炊場に配置された受刑者としか係わりは持てないが、それでも受刑者だった人から手紙を貰う事が有るという。本書は今まで係わって来た受刑者の人達への手紙だと著者は言う。彼らからの「ウマかったっス」という言葉が日々の支えであるし、もらった手紙に「また、おいで」とは書けないという矛盾した気持ちが揺れ動いているのも著者の優しさなのだろう。「食を通して人と向き合う」という栄養士の仕事の中で、特に刑務所の栄養士であればこそ「食」と「人」がキーワードであり、受刑者の更生に大切な基盤になっていることが理解出来た一冊。さて、夕食は「いかフライレモン風味」に挑戦してみようかな。(内池正名)
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