<民主>と<愛国>【小熊英二】

<民主>と<愛国>

「戦後思想」に対する冷めた視線


書籍名 〈民主〉と〈愛国〉
著者名 小熊英二
出版社 新曜社(968p)
発刊日 2002.10.31
希望小売価格 6,300円
書評日等 -
<民主>と<愛国>

それにしても968ページという分厚さは、この著者の、ひいては40歳前後の新世代の研究者の、なにごとかを語っているのではないか。デビュー作の「単一民族神話の起源」が464ページ。「<日本人>の境界」が790ページ。次は1000ページを超えるのだろうか。読み終わるまで1カ月以上、通勤電車のなかでこの本を読んでいると、いつも降りるころには手首が痛くなっていた。

「戦後日本のナショナリズムと公共性」とサブタイトルにあるように、ひとくちに戦後思想と呼ばれるものを現在の時点から「総括」しようとする(と、あえて全共闘用語を使わせていただく)野心的な試みである。

ここでは60年安保のような事件も取り上げられるが、丸山真男、竹内好、鶴見俊輔、吉本隆明、江藤淳といった「戦後思想」を代表する、団塊世代にとって時には激しい共感と、時には本を投げ捨てたくなるような反発を込めて読んだ記憶のある書き手たちが俎上に乗せられ、分析される。

その手つきは、まるで昆虫少年が珍しい昆虫をピンセットでつまみ、灯りにすかして、ためつすがめつし、やがてピンで突き刺して標本箱に収めている、といった印象だ。そこには、僕たちが彼らに感じた愛や憎悪のかけらもない。おそらく同時代の読者のみが共有できる、めくるめく読書体験がない。その冷めた視線がなによりも、著者が言うように「戦後は終わったのだ」と感じさせる。

たとえば吉本隆明は、「革新ナショナリズムの思想に最も敵対し、それを解体した思想家」として、こんなふうに分析される。

敗戦時に学生だった吉本は、徹底抗戦を信じた皇国青年として、いわば戦争責任から免れた無垢の立場を「誇張的に」「演出」して、年上の戦中世代の欺瞞を告発した。しかし兵役ではなく大学進学を選んだ吉本にとって、特攻隊となって死んだ学友への罪責感は戦後、ずっとつきまとった。その罪責感からくる、あらゆる権威への否定の姿勢が、全共闘世代に熱狂的に受け入れられた。

「しかも吉本は、「公」への関心や弱者への罪責感を断ち切り、家庭生活に没頭することが、国家をこえる究極の反秩序であり、「自立」であるという論理を築きあげていた。かつて吉本の戦闘的姿勢に共鳴して全共闘運動に参加し、「敗北」の傷をおった若者たちが、1970年代以降に「ニューファミリー」を築いてゆく潮流と、この思想は合致した」

「もっとも共産党や政治党派の権威が失われ、豊かな私生活にはじめから罪責感をもたない世代が台頭すると、吉本の思想はしだいに影響力をなくしていった……(吉本の著作が歓迎されたのは)高度成長下において、権威や罪責感の制約をふりきり「自分の好きな道をゆく」ことを正当化してくれる思想が、待ち望まれていたからにほかならない」

「総括」という言葉を使いたくなったのは、こういう文体、あるいは視線に対してのことだ。かつて連合赤軍事件で、リーダーの永田洋子が山中のアジトで化粧をしている同志に「ブルジョア的」だとして「総括」を求めた(つまり殺した)、その「総括」のニュアンスである。どこかに神のような、泥沼の地上から舞い上がった超越の視線を感じてしまうのだ。

吉本隆明の部分だけでなく、この本全体で語られている分析に、僕はほぼ同意してもいいと思う。勉強にもなった(自分の生きてきた時代の意味を、その時代を知らない世代に教えられるというのも変なものだが)。それでも、1000ページ近い本を読んで心の底に納得できないものが残っているのはなぜだろう。

ひとつは、僕らが丸山真男や竹内好や吉本隆明から受けた影響、しかものめりこむように読んでから30年近くたった今でも残っている影響は、小熊の鳥瞰的な分析からこぼれ落ちた部分、論理では語れない(小熊の言葉を借りれば「詩」の)部分だからではないか。おっしゃることはその通り、でもね……、と口ごもらざるをえないところのものだ。もっとも、そのことはひとまず措いてもいい。同時代的に彼らを読んだ者にしか通じない言いぐさだ、つまりたぶらかされたのさと言われれば、それまでだから。

もうひとつの疑問は、この神のような視線、あまりの見通しの良さはどこから来るのかということだ。著者は「戦後」(「第1の戦後」と「第2の戦後」に分けている。それがこの本の導きの糸となっていて、その視点は鋭い)が終わったのは1990年前後だという。

高度成長と、引き続いたバブル景気がはじけたあたりのことだ。それから10年。もはや「戦後」は同時代的な経験としてではなく、「歴史」として客観視できるものになった。その時間が、この本を成り立たせていることは間違いないだろう。

小熊は「単一民族神話の起源」や「<日本人>の境界」で、ある時代の思想や学問は、同時代の政治や社会、あるいは民衆の潜在的欲望を反映していること、どんなに客観的に見えようとも、その時代の「偏差」から自由ではないことを語ってきた。「人間は、当該社会を支配している言説(言語体系)の外部に出ることは困難である」と、この本でも記している。

とすれば、小熊の神のような視線、あまりにも冷ややかな見通しの良さは、「戦後」が終わったこの時代のどのような「偏差」を反映しているのか。時代の、どのような無意識、どのような潜在的欲望を反映しているのか。それが最後の疑問だった。

この本で冷たく扱われている世代に属することもあって、なんだか妙な書き方になったけれど、本を読むことのスリリングな楽しみを味わった1カ月だったことを記しておきたい。手首が痛くなっても、次が読みたくてついつい持ち歩き、通勤電車とスターバックスで1000ページを読みついでしまった。(雄)

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