書籍名 | 密航のち洗濯 ときどき作家 |
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著者名 | 宋恵媛・望月優大 |
出版社 | 柏書房(320p) |
発刊日 | 2024.01.24 |
希望小売価格 | 1,980円 |
書評日 | 2024.11.18 |
この本の長いタイトルは、本書の主人公の経歴を指している。無名の在日朝鮮人作家・尹紫遠(ユン・ジャウォン)。彼は朝鮮半島が大日本帝国の植民地だった時代に生まれ、日本で生活した後に戦争中に朝鮮北部に戻り、日本の敗戦後に密航して再び日本に渡って洗濯屋として生計を立てつつ小説を書いた。
著者の宋恵媛(ソン・ヘウォン)は在日朝鮮人文学を専門とする研究者。望月優大は移民・難民をテーマとするライター。二人の共著である本書は、尹の残した日記や小説、家族への聞き書きなどをもとに、彼と家族が暮らした朝鮮半島と日本の各地を尋ね歩いて、尹と日本人の妻、二人の子供たちの人生を記録したものだ。取材に同行した写真家・田川基成による多数の写真も収められている。
本書は前半で尹紫遠が生まれてから1946年に密航するまでを扱い、後半は「洗濯屋の家族」と題して「尹紫遠」「大津登志子(妻)」「泰玄(息子)」「逸己(娘)」と戦後日本で生きた四人の家族を追う構成になっている。また彼らが生きた時代背景と、戦前戦後に日本国家が朝鮮人にどのような政策・制度で臨んだか、その差別的な実態も解説されている。なんといっても興味深いのは、故郷の朝鮮半島と日本を5度にわたって行き来した尹紫遠自身の足跡なので、それを抜き出してみよう。
尹紫遠(筆名で、本名は尹徳祚<トクチュ>)は1911年、釜山の北に位置する蔚山(ウルサン)で生まれた。実家は先祖から受け継いだ山を持っていたが、日本の「土地調査」(という名目の収奪)で土地を失った。1924年、12歳の紫遠は横浜で用品店を営む長兄を頼って単身、釜山から関釜連絡船で玄界灘を渡る。
紫遠は弁護士になることを夢みて横浜の私立中学に通ったが、半年後に父が急死し、兄も店を畳んで朝鮮へ帰ってしまった。紫遠は住み込みの牛乳配達などして食いつなぐが、勉学をあきらめきれず、独学で哲学書を読み、イプセン、夏目漱石、ルソーに心酔する青年になった。その後、短歌に惹かれ、25歳のとき短歌結社「杜鵑花(さつき)」に入会する。
裏路地に魚の腸たつ鮮女らの手の指あかし雪となりつつ
紫遠の歌だ。日中戦争が始まった後の1939年、紫遠は故郷を訪れた。多くの農民が土地を失い、職はなく、飢える祖国を見て、紫遠は「自らの帰るべき場所がもうどこにもないことを思い知る。『私は、ひそかに短歌の世界に自分の生命の絶対地を求めようとした』」(「 」内は著者による文、『 』内は紫遠の文)。その3年後、「朝鮮が生んだ最初の歌集」と銘打たれた『月陰山(タルムサン)』が出版される。このころ、下関で金乙先(キム・ウルソン)と最初の結婚もした。
太平洋戦争が始まって4年、戦局が厳しくなった1944年に紫遠は警察の内鮮課に呼び出され12日間、留置されて拷問を受けた。彼は社会運動家ではなかったし、短歌も「日本による支配への抵抗を詠んだわけでは決してない」が、それまでも刑事が度々、彼の部屋を訪れては蔵書をチェックしていた。数か月後、今度は徴用令を受け取り、「一度は徴用に応じる決意をして警視庁に出頭しかけるも、恐怖に駆られて最後の最後で翻意した。生き延びるために、死なないために、危険でも逃げる道を選んだのだ」。彼は妻と二人、関釜連絡船で朝鮮へ向かった。
二人は監視網を避け釜山近郊の村に隠れ住んで海産物の行商で食いつないだ。が、村の噂になって再び逃げ、次兄の住む朝鮮北部で兼二浦(キョミポ)に身を寄せた。翌年、そこで8月15日を迎える。
すぐにソ連軍がやってきた。夫婦と兄たちは、すでに封鎖された38度線を越えて故郷へ帰ることを決断し、日に数十キロも歩きづめで開城までたどりつき列車に乗った。
釜山は、日本に引揚げる日本人と日本から帰った朝鮮人でごったがえしている。帰還した朝鮮人のなかには、底知れぬインフレによる生活苦に耐えきれず、再び日本に渡ろうとする者もいて、そういう者や引揚げ船に乗れない日本人目当てに闇の密航船が繁盛している。二人は、この密航船に乗った。紫遠は、この時の体験をもとにした小説「密航者の群」で、主人公にこう述懐させている。
「自分たちにとって、日本はそれほど住みよいところであったろうか? つねに日本の社会の圧力にふみしだかれ通しだったのが自分の実情ではなかったのか。排他、けいべつ、圧迫のうちに十年、二十年、三十年、という長いとしつきを」
「それでも今の朝鮮よりはマシかもしれない。乞食とドロ棒ばかりふえてゆく朝鮮。……きのうまで<日本人>になり切っていた奴らが、今ではアメ公になろうと目を皿のようにしている。そうして、そういう奴らが社会の重要な地位にのさばり返っていることも事実だ。だが、しかしだ。だからと言ってこのおれは日本へ密航していいのだろうか」
米軍占領下の日本で、朝鮮半島からの密航船の取り締まりは厳しかった。二人の乗った密航船は下関市の海岸にたどりついたが、上陸してすぐ日本人警防団に捕まってしまう。このころ引揚げ者や密航者の間でコレラが蔓延していた。紫遠たちも隔離され、朝鮮への強制送還のため船に乗せられた。が、港に停泊中のある夜、紫遠は妻を船に残して一人、海に飛び込んで陸を目指して泳いだ(妻とはその後、会うことはなかった。朝鮮語より日本語が得意だったろう彼女が、送還された朝鮮半島でどう生きたかは分かっていない)。
翌1946年に東京へやってきた紫遠は、1年ほど朝鮮人向け新聞社の社員をしたり、ストッキングの行商をしている。やがて裕福な家の娘である大津登志子と結婚し(実家から絶縁された彼女の人生も本書でたどられるが、ここでは触れない)、クリーニング店を開業する。が、すぐに行き詰まり、洗濯屋に日給で雇われる「スケ(助っ人)」をして糊口をしのぐ。子供も生まれる。妻の内職を足しても食うや食わずの「泥濘(ぬかるみ)」(紫遠の小説の題)がつづく。昼は働き、一人になることのできない狭い部屋で、夜は小説を書いた。
1957年、再びクリーニング店を開業する。一時は仕事もうまく回りだしたようだが、紫遠の胃と肝臓は既に病に侵されていた。1964年、「文学に一生をかけた」一人の在日朝鮮人作家が死んだ。「38度線」「人工栄養」「密航者の群」などの作品が残された。
尹紫遠の日記は著者の一人、宋によって2022年に刊行された。彼女は、こう書く。「『尹紫遠日記』は、在日一世の日記としてはおそらく初めて世に出たものである」。植民地時代と戦後の混乱期を生きた在日一世がどんな人生を歩んだかは、何人かの優れた在日作家が書いた小説を除けば、在日二世、三世や日本人にとって、一世が記録や資料を残さなかった(残せなかった)こともあってほとんど知ることができない。この本が貴重なのは、そんな在日一世のひとりの無名作家と家族、日本人の妻、子供たちまで含めて、朝鮮半島と日本を何度も往来した(せざるをえなかった)、また戦後を貧困のなかで文学に生きた、その足跡を明らかにしたことにあるだろう。
ところで。なぜ書店でこの本に関心が向き手に取ったかを考えてみると、その動機のひとつに、私が小学生時代に出会った在日の子供たちの記憶があるように思う。本書に登場する尹紫遠の子供たちより上の世代に属するが、最後に彼らの姿を記しておきたい。
私は埼玉県川口市で生まれ育ち、そこで小学校時代を送った。川口は最盛期には500軒余の鋳物工場が立ち並んだ工場街で、戦争期には軍事産業の末端を担っている。そのせいだろう、町には多くの在日朝鮮人が暮らしていた。私が通った小学校には、どのクラスにも数人の在日の子供たちがいた。1950年代、学校全体では100人近かったのではないか。放課後には民族学級があり、在日の講師が数人いて、子どもたちに朝鮮語を教えていた。調べてみると、特別学級が設置されたのは1950年で、それから十年余続いたという。もっとも民族学級が設置されたのは川口市では私のいた小学校だけらしく、学区外から通う児童もいて、家庭訪問が大変だったと当時の先生が回想している(『開校五十周年記念誌 川口市立幸町小学校』、1982年)。
二人の在日の生徒が記憶に残っている。
一人は李泰明君。5、6年で同じクラスだった。坊主頭で、背は低いががっしりした身体を持っていた。私も背が低かったので、教室やグラウンドで並んだり、一緒に走ったりすることも多かった。二人ともクラスでは足が速いグループに属し、50メートル走は勝ったり負けたり。運動会で李君に負けて2着になり、悔しそうにゴールする私の写真が残っている。李君は強烈に負けん気が強く、ケンカもよくした。もっとも、クラスに民族を差別する空気はなかったので、普通の子どものケンカ。泣きながら体の大きな子に突っかかっていった姿をよく覚えている。
中学は別々になったが、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業が始まり、李君は家族と北へ帰っていった。川口を舞台にした映画『キューポラのある街』には、主人公の吉永小百合が、北へ帰る友達を川口駅頭で見送る忘れがたい場面がある。私は李君が北に帰ったことを後に知ったが、あんなふうに盛大に見送られたのだろうか。その後の消息は、ない。
もう一人は、1、2年で同じクラスだった金さん。無口で、クラスでいちばん背の高い女の子だった。自分からしゃべることはなく、何を聞かれても、蚊の鳴くような小さな声でしか答えない。背の高いことを恥じるように、いつも背を丸めて歩いていた。金さんの姓名を日本語読みすると性的な意味合いを帯びるので、悪童たちは彼女をその綽名で呼んでいた。小学校低学年の子供というのは残酷なものだ。私は金さんをそう呼ぶことはなかったが、学級委員だったので、注意しなきゃ、と思った。でも集団の勢いに気圧されたのだったか、できなかった。その悔いが70年後の今も胸の奥深くに残っている。
李泰明君と金さん。二人とはその後、会うことはなかったが、どんな人生を送ったのだろうか。北朝鮮や在日朝鮮人に関するニュースに接するたび、彼らの顔を思い浮かべる。(山崎幸雄)
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