「帝国」日本の学知 第一巻【酒井哲哉】

「帝国」日本の学知 第一巻

「帝国」編成の系譜


書籍名 「帝国」日本の学知 第一巻
著者名 酒井哲哉
出版社 岩波書店(359P)
発刊日 2006.02
希望小売価格 5040円(税込み)
書評日等 -
「帝国」日本の学知 第一巻

本年春から刊行が開始された本講座のうたい文句は、明治以降の開国期に欧米の学問を移入する形で出発し、日本の「帝国」化の過程で構築されていった諸学における形成過程に注目することで、「帝国」としての認識構造を明らかにすることと言っている。

「学知」という言葉もなじみの薄いものであるが、学問の形成過程を踏まえつつ、同時にそれを実践文脈(知)のなかで捉えなおす複眼的視点が念頭に置かれている。

第一巻である本書は政治学・法学・植民政策学などの「帝国」の政治システムを運用する実践的技術知を分析しながら、近代日本の学知がどんな相互作用と変容を示したかを明らかにしようとしている。日本の帝国統治を本国から植民地への一方的な権力浸透過程としてではなく、両者の相互規定的な関係性として捉える試みと言える。

構成は、札幌農学校と植民学の誕生、二十世紀初頭における台湾と韓国の治安機構、韓国の条約改正と帝国法制、植民地と法学者たち、京城学派公法学の光芒、植民地の政治学、「大東亜戦争」と新秩序の言説、「帝国秩序」と「国際秩序」からなっている。各々が興味を引かれるが、いくつかのトピックスを上げてみる。

日本の国民国家建設は内国植民である北海道開拓から出発したが、その先導的・指導者養成を含めて役割を担った札幌農学校とその後身である北海道帝国大学における植民政策学の軌跡を追っている。特に、その中心人物であった佐藤昌介の言説をトレースし、札幌農学校における植民政策学の変化過程を追っている。それは、北海道庁の創設に伴う開拓政策の転換、世紀転換期における内国植民論から満韓進出論に変化していく状況であり、札幌農学校から北海道帝国大学の中心人物であった佐藤の軌跡そのものでもあった。

1932年、満州国承認の年に佐藤は「満蒙と北洋」という象徴的な大講演を行う。こうした、「帝国」の第一段階としての札幌農学校のありかたから始まって、東京帝国大学・京都帝国大学と伍して北海道帝国大学が果たした満州研究を佐藤はリードしていった。植民政策学として学から知への変化は国家戦略をサポートする形で相互に進化させていったことが良く分かる。

もう一つの植民地学知として、戦前日本の公法学の頂点を極めたといわれている京城帝国大学(所謂京城学派)の項は興味深い。京城学派の代表的な二人、清宮四郎・尾高朝雄の戦時下における視点を「その知的故郷は東京でなくウィーンであり、それはまさしく「民族の牢獄」の最前線に位置していた彼らが「法と政治の臨界」に立たされた時代に「学知」としての公法学を展開した」とする。滝川事件で翻弄された京都帝国大学法学部の憲法学者、黒田覚は当時の彼らの状況を次のように紹介しているのが象徴的だ。

「その頃の京城学派の人々の活躍はすばらしかった。内地がはげしい激動の中にあったのに、京城の空には台風の目のようなひと時の静穏があったのかも知れない。何はともあれ、私はこの学派の人びとが羨ましかった」

こうした環境で、多くの学問的労作が京城帝大の法学者から本土に向けて発信されていた。彼らの学問的生産力は、当時の他のすべての帝国大学法学系を圧倒していたという。そのポイントは本国である日本を超えた、グローバルなレベルでリードし得る人材が集まったという事実、まさに知的故郷を東京でなくウィーンだったという点。

もう一点は、斉藤実から宇垣一成までの代々朝鮮総督は京城帝国大学の学問を尊重し、総長公選制が確立したことからも分かるように、この頃、文部省より朝鮮総督府のほうが大学の自治を尊重していたと言われる。しかし、この環境も時代に翻弄されていく過程で、国家の造営物として「忠良有為ノ皇国臣民ヲ練成スル」ために朝鮮半島に設置した帝国大学だけに「内鮮一体」を掲げる南次郎総督の登場(1942年)とともに暗転していったという事実は、まさに学知の限界を表している。

「帝国」の学知として、避けることの出来ない視点は「大東亜共栄圏」である。

「大東亜共栄圏」の建設は、戦時期の日本が戦争目的を説明する公定イデオロギーであった。しかしながら、スローガンとしての言葉そのものはいざ知らず、政策や世界観としての大東亜共栄圏の内実についてはその説得力にはじめから自信を持つものはむしろ少なかったといわれる。例えば、1941年9月30日の思想研究会(海軍主催)においても戦争に関する「在来の標語」が槍玉に上がっているし、同年10月7日の外交懇談会でも「大東亜共栄圏とは何のことか、それをあきらかにして貰いたい。いろいろ読んで見たが矛盾だらけで把握できなかった」(田村幸策)といった発言がつづいている。

しかし、国家としては「理論的」正当性を求めていた。尾高朝雄が記した「大東亜共栄圏の文化理念」(:京城帝国大学大陸文化研究会編「続 大陸文化研究」岩波書店1943年)での主張は、

「・・この段階で、世界は、米英のデモクラシー、独伊のファシズム、ソ連のコミュニズム、そして日本の皇道思想の4陣営、4政治思想の激突の様相となる。・・・大東亜共栄圏を国際新秩序のもとでの共存共栄・国際平和という国際主義を追及するものと位置づけ、その優越する文化理念が西進してゆく趨勢を語ることで中国人民を主観的には説得しようとしている。・・一方、ジュネーブの国際連盟の抽象理論によるグローバル化を「金融資本国家の跳梁跋扈の舞台を提供する」だけだと批判し、国家と世界のあいだにいくつかの地域国際秩序の成立を計画すべきだと説く・・・」

こうした、「大東亜共栄圏」の持つ前提として、西欧の「植民地主義」を排して、「帝国」確立するという大義は、結局のところ、学としてその正当性を認めないとした人たちは発言・活躍の場を追われ、残った者たちもその正当性・大義を理論化する努力をしつつも、「知」としての実践においては、「八紘一宇」といったスローガンにそのベクトルを求めざるを得なかったということにその限界が示されている。

本書を読み進むに連れて、戦前・戦中を通じ、岩波書店の辿った軌跡も明確にすべきではないかという思いが湧いてきた。本書の引用されている論文・書籍の内、かなりの数は岩波書店から出版されているのも事実である。「岩波文化」と称される、確立されていた権威が結果として帝国の学知としてのプロパガンダに利用されたというのは言い過ぎとしても、国家機能の一部として作用したことをこの講座において、解明すべきではないか。

第四巻は「メディアの中の「帝国」」というものだが、新聞・通信社・雑誌というマス・メディアに焦点をあてている構成には疑問もある。「帝国」に対し、既成メディアとして深く加担して、「学知」に組み込まれた岩波書店と岩波文化と呼ばれる概念を冷静に考える時代になったのではないか。

また、各章はいかにも学者の論文然としており読み難さが先に立った。その理由を考えてみると、論理展開が難しいということではなく、一般的に使用されない「言葉」が定義されることなしに使用されているケースが多い。学者仲間では当然の知識だとしても一般人を読者と想定すれば、もう少し丁寧に文章表現することで「講座」としての価値は上がるように思える。(正)

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