追憶の東京・異国の時を旅する【アンナ・シャーマン】

追憶の東京・異国の時を旅する


書籍名 追憶の東京・異国の時を旅する
著者名 アンナ・シャーマン
出版社 早川書房(368p)
発刊日 2020.10.15
希望小売価格 2,420円
書評日 2021.02.17
追憶の東京・異国の時を旅する

著者は2001年に来日して仕事の傍ら日本語を学んでいた。本書は10年程の東京生活を基に書かれたエッセイである。原書は「The Bells of old Tokyo : Travels in Japanese Time」と題されているように、「鐘」と「時」をキーワードにして寺社や歴史施設を訪ね、関係者との対話を通して歴史を学んでいる。その異文化を知ろうとする努力に驚かされるだけでなく、日本語が未熟だった時も辞書を片手に積極的に日本人に話しかけていく、その姿勢は素晴らしい。ただ、それも女性であることの有利さと思うのは男のひがみだろうか。

「東京はひとつの壮大な時計」という言葉で本書は始まる。都内のほとんどの区では夕方5時になると防災無線のスピーカーの点検を兼ねて音楽やチャイムが流れて来る。著者が住んでいた所では「夕焼け小焼け」のメロディ。或る日の夕方に違う音を聞き、それが芝の増上寺の鐘の音と知って、吉村弘の「大江戸、時の鐘・音歩記」(2002年)を読み、彼女の異国の「時」の旅が幕を開ける。本書では日本人だけでなく、西欧人が日本文化について語っている書物や文章が数多く引用されているのも著者の視野の広さなのだろう。

江戸期には、時を知らせる鐘は日本橋、上野寛永寺、江戸城の鬼門である北東にある観音を祀る浅草寺の三カ所で始まり、その後、芝、本所、四谷、赤坂、市ヶ谷、目白に増えて行った。こうした都内の「時の鐘」の所在地を訪ね、寺社やその地域を体感しながらの散策記録であるとともに、時間・時代の旅である。本書の旅の歴史事象のキーワードは、江戸にはじまり、明治維新、関東大震災、東京大空襲、終戦と占領期、1970年前後の闘争と混乱等の事象を節目として描き、その節目こそが日本の転換期であり、文化の転換点だったと見ている。

「時の鐘」発祥の一つ日本橋石町(今の室町)にあった「時の鐘」は現在小伝馬町十思公園の中の鐘楼に置かれている。そこは牢屋敷が有ったところであり、処刑された人々を弔うために作られた大安楽寺の僧侶からその歴史を聞き、浅草の弁財天の祠と隣り合う時の鐘を訪ね弁財天のような女性がお参りしている姿に驚き、上野の精養軒と隣接した鐘楼では、現在の「時の鐘」の撞き手を訪問して話を聞く。この旅の記録を読み進んで行くと、身近な事柄でも我ながら知らないことが多いことを痛感するばかり。

著者は現在の上野について「喪失感」という言葉で言い表している。この地では、江戸城開城後、彰義隊が寛永寺に立てこもって戦ったものの新政府西郷軍の圧倒的な勝利で終わった。寛永寺の境内は焼き尽くされ、明治新政府はその広大な土地を日本の近代化のショーケースのように、電灯をつけ、動物園や競馬場を作り、路面電車を開通させていった。そうした歴史から、失われたものの大きさを想い、「変化」ではなく「喪失感」と表現しているのだ。

また、日比谷にあった鹿鳴館は明治維新で「外国人(西洋人)に笑われない様に」という意識から背伸びをして作った文明開化の象徴であるが、フランス人作家のピェール・ロティは「鹿鳴館は美しいものではない。フランスのどこかの温泉町の娯楽場(カジノ)に似ている」と語っていたと紹介している。また三島由紀夫が彼の小説「鹿鳴館」で日本人のアイデンティテーの喪失と無意味な妥協の象徴として鹿鳴館を捉えていることに共鳴している著者がいる。

忘れてはいけないという観点で、本所横川の「時の鐘」は今や記念碑があるだけであるが、その地域には関東大震災と東京大空襲の慰霊のモニュメントを訪れている。この地で関東大震災では3万人が死亡し、1945年3月10日の東京大空襲では一日で10万人が死亡しているのに、長崎の平和記念資料館や広島の原爆死没者追悼平和祈念館のようなものが無い。唯一あるものは、タクシーの運転手すら知らない個人の寄付で作られた「大空襲戦災資料センター」だけであることに疑問を呈しているとともに、著者は広島や長崎を訪れることに躊躇している自分を見つけている。それは、日本人の敵であった米英人である自分を意識しているのだ。

「時の鐘」がある市ヶ谷を訪ねるために地図を調べていると、鐘があった亀岡八幡宮の北西に大きな敷地があることに気付く。この土地が防衛省の土地で有る事を知り、そこを舞台にした歴史を辿って見せる。その土地は、戦時中は帝国陸軍の参謀本部が置かれていた。終戦後、連合国は見せしめの様に、その建物を極東軍事裁判所として戦犯を裁いている。古い秩序の終わりを国民に告げる象徴的な舞台であった。

そして、著者の時間の旅は戦後も続き、1960年代の安保闘争、ベトナム反戦運動、成田闘争、70年安保、そして市ヶ谷の地で起きた三島事件を俯瞰して見せる。学生運動も三島事件も、政治に対する失望感の結果としているが、その根源を「議論は戦後日本の価値観とその価値観を定めたインテリ層に疑問を呈するものだった。・・・A級戦犯として起訴を免れて公務復帰した岸信介が首相では平和憲法にどれだけの価値が有るのか」という視点を提示している。そして、明治以降太陽暦に変わっても出生・死亡・結婚の登録は和暦で行われている日本の時間感覚の特徴を、「第二次大戦開戦、無条件降伏、東西冷戦という歴史の中で『昭和はいつも昭和だった』」と指摘する著者の言葉は重い。

こうした、時間感覚の違いを次の様に表現している。「欧米人は、時間は前に進むものだと思っている。・・終わりに向かって進んで行く抽象的なもの。でも日本では時間や年は動物になぞらえて表されていることを忘れてはいけない」。確かに、一日の時間表現の「丑三つ時」などは今となっては落語か講談でしか使わないものの、「俺は亥年生まれ」などの十二支表現や年賀状では十二支は日常の物だ。そこで、ネズミが一番になった話や、ネコがなぜ入っていないのかといった逸話は欧米人にとっては興味深いものだというのも良く判る。そして60年間で一巡する円のように時間は推移する。

自然の中で生きてきた日本人にとって時間は自らが操作するものではなかった。それが象徴的に表れたものとして「サマータイム」を取り上げている。戦後、占領軍は日本の文化風土に関係なく、ランド・マークとしての建物にはアニー・パイル劇場(宝塚劇場)、ナイル・キニックス・スタジアム(神宮競技場)などの名前を付けた。また、クイズ、レジャー、オッケーなどという新しい言葉が日本人に受け入れられていった。著者からすると婦人参政権や華族制度廃止などの大改革が受け入れられたにも関わらず、全く受け入れられなかったものがある。それは「デイライトセイビング・タイム」、日本語風に言えば「サマータイム」である。占領終了と共に日本は「サマータイム」をあっさり捨て去った。日本の「時」の特性が一番大きく出た事象かも知れない。

各章の最後に「大坊珈琲店」という小文が添えられている。「大坊珈琲店」とは南青山に実在した喫茶店で著者が東京在住中に「ゆっくりと流れる時間を楽しんだ場所」でありマスターと覚えたての日本語と身振り手振りで会話していた思い出が紹介されている。

日本の喫茶店文化を「東京の学生の生活の一部」と言っているように思い出の場所であるとともに、思い出の時間ということだろう。著者にとっては「なにかが上手くいかない時に足を運ぶ場所」になったという。そして、3.11の対応は時間ごとの変化の中でどうすべきかを悩んでいる著者が書かれている。英国大使館は気を付けるようにとの指示だけだったが、四日後に香港に向けて日本を離れた。そして「逃げた」と思われてしまう危惧が書かれている。ここでも、「時」が語られている。

本書を読んでいて、夕方の5時にチャイムが聞こえてきた。私は世田谷に住んでいるが、世田谷区は著者が書いている「夕焼け小焼け」ではなく、小学校等で使われている例の聴き慣れた「キン・コン・カン・コン」というチャイムである。区のホームページを見てみるとそのチャイムは「ウェストミンスター寺院の鐘」とのこと。

何故か?「夕焼け小焼け」の方が良い様な気がする。そう思いながら窓の外の夕景の富士を眺めている。そして、明日は小伝馬町に「時の鐘」を見に行こうと思った。そんな旅心をかき立てられた一冊である。(内池正名)

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