ターミナルタウン【三崎亜紀】

ターミナルタウン


書籍名 ターミナルタウン
著者名 三崎亜紀
出版社 文藝春秋(453p)
発刊日 2014.01.15
希望小売価格 1,785円
書評日 2014.03.09
ターミナルタウン

久しぶりに三崎亜紀の本を手にした。「となりまち戦争」や「廃墟建築士」など、その大胆で奇想天外な発想のフィクションとして楽しませつつ、じつは我々の生活の紙一枚向こうではそうした奇想天外さが現実になりかねないという怖さを表現してきた作家だ。本書もまた読者の期待には十分応えてくれる一冊となっている。三崎の作り上げた精密な設計図に裏打ちされた情景や人物設定による文章は時としてマニアックすぎる表現の部分もあるが、それでいて、けして嘘っぽさを見せることがない密度感はノンフィクションとフィクションの間を微妙に揺れ動く「架空世界」を巧みに構成している。

本書のテーマは「鉄道」。交通輸送インフラとしての鉄道システムの発達や変化とともに、衰退していった「静原」という町がその舞台。舞台装置は広大な駅舎、プラットホーム、そして「トンネル(隧道)」である。日本の鉄道システムになぞらえてみると、この町は在来線(狭軌中央軌道)の駅と同時に支線(北端線)の接続駅の機能を持つことで、ターミナル駅として発展してきた歴史がある。町の郊外にはニュータウン開発が行われ、静原町(駅名としては「静が原」とするなど三崎も芸が細かい)とニュータウンを結ぶ新交通システムのタウンシャトルが導入されている。

しかし、新幹線(広軌特別軌道)が実現した際には「静が原駅」を通過駅とすることが決定された。以後、支線(北端線)の廃止、貨物取扱の停止などが続いて、町の衰退が始まった。この町は隣の市に合併され、静原町として独立していた時代とは違って思うような補助金も投入されなくなっていった。こうして、多くの住民が町を離れ、駅前の商店街はシャッター街と化し、鉄道関係の住民の居住に大きく依存する計画を立てていたニュータウンは無人の空間になってしまった。こうした旧静原町を再活性化させていく活動の物語である。こうまとめてみると、同じ様な状況が実は日本の随所に発生している問題なのだということが判る。

登場人物は、町の過去を知らない若者や町の外から来た青年たちが中心になっている。
大学を旧都といわれる隣の都市で過ごしていたが、商店街の和菓子屋を営んでいる母親を手伝うために町に戻ってきた娘、池内理沙。彼女の父は伝説の「隧道士」だったが、「隧道」の事故に巻き込まれ意識不明のまま入院中。

仕事や人間関係でのストレスから自分自身の影を失ってしまった男、柴崎響一。この病気は国によって管理されていて、この男の場合は家族との共同生活は許されず、ニュータウンにたった一人の居住者として住まいが与えられている。駅前にあるタワーを管理する会社が彼の職場である。

ヘッドライトだけを輝かせて静が原駅を疾走していく謎の列車を追ってこの町にたどり着いた青年、深見牧人。

20年前、「静が原駅」のホームのベンチに置かれていた赤ん坊が成長して、「静が原駅」の駅員として戻ってきた若者、丸川。これらの若者たちが廃れきった町を再興しようと、各々の思惑を持ちつつ立ち上がる。町は鉄道線路によって東西に分断されていて、おまけに両側をつなぐ自由通路は住民たちの手で封鎖されている。これは当時の町長の自治体運営に関する意見対立の結果でもあり、「商店街」対「隧道士」という職業間対立の側面も持っている。まずその対立関係を解くために、市からの助成金も出ないため修理さえできないアーケードを伝統的な「隧道」で再構築して新たな観光資源として町に人を呼び寄せる策が提案される。

物語の重要なテーマの「隧道」とは、近代建築工法としての「トンネル」とは違い、「隧道の種」を育て、生物体として成長させていくことで「隧道」を完成させるというもの。それを行う技能集団が「隧道士」なのだが、職人としての「隧道士」の能力は天賦の才と努力によって達成されるという。当然近代化されていった鉄道において、隧道士の仕事は無くなっており、その技術の伝承も風前の灯火である。ここに目を付けた若者たちは商店街アーケードを「隧道」で再興し、同時に町の伝統であった「鉄道祭」を行うことで町に人々を呼び戻すという大義を掲げて敵対する住民間で協力するよう説得していく。若者たちの呼びかけと努力で古びたアーケードは「隧道」によって再興され住民主体の町興しはスタートを切る。

一方、当初は若者達の活動に見向きもしなかった、市の役人、政治家達、チェーン店などが「金」になりそうだと判断するや、静原に押し寄せてくる。彼らは住民を無視して「鉄道フェスティバル」と称するイベントを企画実行していく。そこにはビジネスと権力に彩られた人々の思惑が渦巻き混乱を迎える。結果そうしたゴタゴタが町の歴史の清算への後押しになるとともに、若者達が抱えた問題は解決に導かれていく。

ヘツドライトだけを輝かせて走りさる謎の列車、無いのに有ると語り続けられた駅前タワー、影を失った人たちへの対処、それらは全て「隧道士」に育てられた「隧道」によって対応・解決されていく。狂乱の時が過ぎて落ち着きを取り戻した町では、若者たちが新な運命に従って、町を後にする。しかし、必ずこの町に帰ってくるという意思を示して彼らは旅立っていくことになる。多くの人生が駅を通り過ぎていく。それを40年間静が原駅で見続けた女性駅長は最後までその職務に忠実であり続けようとしている。

「鉄道線路は交わることなく各々の針路に向けて走るようにひっそりと人々の旅立ちを見つめている。駅長は見守る人だ、通り過ぎる人生に口出しは出来ない。・・・レールは再び交わるべきなのだろうか。それは誰にも判らないし、駅長が決めることでもない」

本書のテーマの通り、鉄道は時代とともに変化してきた。交通システムとしての歴史が長いだけに鉄道遺産に刻み込まれた人生は数多い。作家三崎の目の付け所は見事である。

鉄道構造物の中で、廃線となった鉄道の鉄橋やトンネルなどは急峻な地形の中に取り残されるだけにその姿を長くとどめているケースが多い。特にトンネルは不思議な遺構である。評者が旧中山道の碓氷峠越えをした折にも、廃線となった横川・軽井沢間の信越線を山道から何度か目にすることになる。トンネルはその入り口で認識をするが、あとは漆黒に満たされた空間があるだけである。われわれはトンネルの全貌を見ることは決してない。空間としてトンネルを理解するという不思議さが付きまとう。ドーナッツの穴は、周りのドーナッツを食べてしまった後はどうなるのかという哲学問答にも似て、なにやら不安になる。そんな「トンネル(隧道)」を本書で取り上げた三崎に次なる作品を期待してしまう。

振り返れば、日本の輸送システムの近代化は、新橋・横浜間の陸蒸気の運行に始まり、多くの地域鉄道会社は鉄道院から国鉄へと集約されていった。陸海空それぞれの国内輸送の進歩は鉄道システムの劣化に拍車をかけて、衰退させていった。読者の近隣でも、旧国鉄の貨物駅や広大な操車場跡が放置され、草ボウボウの中に埋もれているところは多いはずだ。それでも、東京や大阪といった都市圏の跡地はまだ幸せだ。東京の汐留の操車場跡地はビル群に生まれ変わり、大阪梅田の操車場跡地も見事に再開発された。問題は地方の中核都市である。人と町の関係は変化し、地域特性さえ失いつつある中で新たな過疎がうまれていく。それでも著者は将来を新しい世代に託すことで、希望が続くことを描いている。映画化されたらどんな映像になるのか想像しただけでたのしくなってしまう小説である。(正)

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