茶の湯とキムチ【丁 宗鐵】

茶の湯とキムチ


書籍名 茶の湯とキムチ
著者名 丁 宗鐵
出版社 講談社(258p)
発刊日 2010.11.12
希望小売価格 1,575円
書評日 2010.12.09
茶の湯とキムチ

著者の丁は1947年東京生まれというからまさに団塊の世代。横浜市立大学の医学部を卒業して北里研究所・東大医学部助教授を経て日本薬科大学教授が現職という経歴。父親や母方の祖父が韓国で生まれ育ち、日本に渡ってきたという。そして、還暦を迎えたときに本名のまま日本国籍を取得している。こうした自身の日韓双方のアイデンティティを生かして新たな日韓論を構築するという意図とともに、「在日」という立場のアイデンティティの確立をめざしているというのが本書である。加えて、この二つの論点が微妙に交錯しているのも垣間見えるところが特徴だろう。日韓を考える上で「鳥瞰図的な文化論」という言い方で彼の視点を説明している。

「わが国独自の・・・、と思っているものが実は隣国の存在なしには成立しえなかったという事実を明らかにすること。侵略や征服といった負の歴史が作り上げている悪感情のフィルターをはずすこと」

こうしたニュートラルな視点を保つことは「言うは易く、行うは難し」である。しかし、本書は緻密な論理だけの展開になっているわけでないし、独善的な意見の押し付けになっていない。極めて抑制された展開は違和感なく読み通すことが出来る。日本人の目線からでは見過ごしてしまうような事実も提示しながら、茶の湯とキムチという象徴的な文化を取り上げて両国相互が影響を与え合ってきた事例、技術の転移の例として製鉄と陶器製造技術が日本に伝播した経緯や技術主導権が日本への移行、両国の社会構造や精神構造に影響を与えた儒教思想の定着の差についての考察、李氏朝鮮以前の半島各国のヘゲモニー争いが日本の帰化人社会での展開、日韓の衣服の色彩の違いの理由、等々について著者のいう鳥瞰図的な視点から新しい発見があるのも大変面白い。

本書のタイトルでもある、キムチは韓国を代表する発酵食品であり、まさに象徴的な食べ物であるが、その基本的な素材たちについてこんな指摘をしている。

「・・・キムチのトレードマークであるトウガラシを大量に入れて漬け込むようになったのは20世紀になってからで、1910年ごろまでの平均的な韓国家庭でのキムチに使用するトウガラシの量は現在の1/5程度と言われている。・・・この変化は日本の韓国併合が行われた1910年以降日本の食文化との差別化をどんどん進めていった結果だ・・・」

「・・トウガラシがもたらされた経緯は諸説ある中で、朝鮮出兵時に日本からという説がもっとも有力である。・・日本にとってトウガラシはポルトガル由来のもので『南蛮辛子』といっていたが、朝鮮に渡り『南蛮椒』とか『倭芥子』といわれていた。・・・もうひとつのキムチ作りの重要な材料が白菜である。現在の品種が市場に出回るまでは、大根や小松菜のような葉野菜が使われていた。・・第二次対戦中や朝鮮戦争での韓国の農業の衰退を解決するため1950年代に禹長春(末永長春)が日本から韓国に新しい品種の白菜をもたらした。彼は父韓国人母日本人の両親のもと日本生まれの日本育ちで東大農学部の出身であるが、晩年は韓国に渡り韓国の農作物の改良に力を注いだ人である。日本の白菜と韓国の白菜と交配を続けてキムチに最適な白菜を作り上げたといわれている。・・・」

こうしたキムチにおける日本との因縁が浅からずあるというのも興味深いことだ。 かたや、日本の茶の始まりは遣唐使が茶を持ち帰ったものの、茶自体が貴重品で喫茶の習慣が根付くことは無かった。その後鎌倉時代に禅宗とともに抹茶は薬用として伝えられ臨済宗の僧栄西が茶の栽培を推奨して普及させたことで室町以降は公家や武家による茶の湯は定着して行った。そして「千利休」の侘び茶が全盛を極めるというのが日本における茶の湯の荒っぽい進展である。韓国においては宋の時代10世紀~11世紀)に茶は伝来していたものの、寺の中で茶を飲む習慣に限られていたようだ。

「・・・韓国では当時すでにモンゴルの影響で肉食の習慣があった。肉食は抹茶のような濃茶とは相性が悪い。動物性タンパク質がタンニンと凝着してしまい消化不良を起こす。一方野菜や炭水化物を中心とした禅房での生活は茶の相性が良かった。・・・」

こうした食文化との関係から茶の普及についての指摘は医学者の視点として面白い。加えて、堺の商人であった本名「田中與四郎」がなぜ「千」という苗字を名乗ったのかを読み解いている。

「・・当時の堺は貿易の盛んな国際交易都市でした。・・ヨーロッパからの宣教師や中国の商人など・・・なかでも多かったのが朝鮮半島から来た人々です。1392年に朝鮮半島を支配した李氏朝鮮は、それまでの支配者層を弾圧しました。このため茶の文化を育てた仏教の僧たちや貴族が国外追放の憂き目に会い、隣国に逃れました・・高麗からの亡命者とその子孫たちが大勢暮らす世界有数の国際都市、それが利休の住む堺でした。・・・日本では珍しいこの苗字も、韓国では頻繁にみられます。・・・」 田中與四郎の異国趣味とも言える「千」という苗字の選択に日韓のつながりを見ているのだ。

歴史をより遡ってみると、日本史の中で私たちは半島からの人たちを一括りに渡来人として習ってきた。先年、旧東海道を歩いていたときに平塚宿のはずれの花水川を渡って大磯に入ってすぐ高麗という地名と高来神社という神社を見つけた。高来神社は高麗神社ともいわれているようだ。埼玉県日高市にある壮大な高麗神社しか知らなかったこともあり、何故大磯に高麗神社があるのかと不思議に感じた。

「・・・『高麗王若光』は高句麗滅亡の貴族でまず来日時は大磯を拠点として入植して703年に天武天皇から『高麗王』を授かり713年に武蔵野国に新設された高麗郡の首長に任命された。・・・高麗王若光が日本に来た頃、すでに多くの渡来人が日本に入植しており若光は九州や近畿など当時すでに栄えていた地域に住むことが出来なかった。なぜならそこに住んでいたのは本国で刃を交えていた新羅や百済人たちだったから。・・・」

こうした半島内のヘゲモニー争いは日本においても継続されており、本書でもいろいろと指摘されているところであるが、その一つは「古事記」は新羅系が「日本書紀」は百済系の人たちによって記述されたといわれている点だ。こうした歴史的な事実を見ていくと、一言で日韓双方のアイデンティティの確立といっても極めて複雑な経緯で双方が影響を与え合ってきたことにも理解しておくことが重要である。

最後に在日のアイデンティティのあるべき形として著者が提案している指針は中国の客家のありかたである。客家は唐・宋代に戦火を逃れて国内外に散っていた漢民族の一つで民族としての特性を失うことなく多様な地域・文化の中で生きてきた。それは異文化の中で生きる術を知っているだけでなく、異なった文化同士の「橋渡し」の役割を担いつつ自らの客家としてアイデンティティを培ってきた。こうした生き方こそ在日のアイデンティティの基本という著者の意見は在日の人たち、特に若い人たちからどう受け止められるのか興味深いところである。(正) 

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