ツ、イ、ラ、ク【姫野カオルコ】

ツ、イ、ラ、ク


書籍名 ツ、イ、ラ、ク
著者名 姫野カオルコ
出版社 角川書店(432p)
発刊日 2003.10.31
希望小売価格 1800円
書評日等 -
ツ、イ、ラ、ク

笑える恋愛小説――と、この本を言ってみても、おそらくどんなイメージも浮かばないだろう。そもそも「笑える」と「恋愛小説」とは結びつきにくい言葉だし、誰もが思い浮かぶような先行モデルもない。

この小説は「笑える」といっても、面白おかしいというより知的な笑いだし、「恋愛」といっても、甘く切ないものというよりむしろ狂おしいほどの感情の嵐を指している。その異質なもの同士がからみあい綾をなして、ユニークな、そして実に楽しめる小説が生まれた。

姫野カオルコという名前は前から知っていた。でも「変奏曲」とか「不倫」というタイトルからして、自分の興味とはまったく別のところで書かれている小説だろうと思っていた。だいたいカオルコなんて名前からして少女趣味だし、その上に姫という字が乗っかっているのだからなおさらだ。

「ツ、イ、ラ、ク」も、帯に「忘れられなかった。どんなに忘れようとしても、ずっと」「心とからだを激しく揺さぶる、一生に一度の、真実の恋」なんぞとあって、最初に書店で見たときは、なんとかの真ん中で愛を叫ぶ類のものだろうと思って手が伸びなかった(読者の大半は10代、20代の女性だろうから、こういう帯をつけた編集者の判断は間違ってはいない。ただし、中身を正確に伝えていない)。

はじめはそんな気分だったのに、ちょっと読んでみようかと思ったのは、中条省平の彼女に触れたコラムを目にしたからだ。ついでながら、中条省平の書評やコラムは、僕が新しい本やマンガ、映画を選ぶ際に参考にしている書き手のひとり。やや誉めすぎのきらいはあるが、裏切られることは少ない。

前置きが長くなった。この本の笑いは、物語のなかに作者がやたらと顔を出すことから生まれてくる。それも、よくあるように地の文と見分けがつかないようさり気なく登場するのではなく、作者が露骨に顔をのぞかせて本文を離れてしゃべり出す。登場人物のせりふに突っ込みを入れ、ボケをかまし、あるいは歴史的人物を引き合いに注釈をつけ、データを示し、社会的背景を語ったりもする。

例えばこんな具合。

「愛(登場人物の名)は、初夏の雨の日に準備室にいた隼子(じゅんこ)と河村を覗いてしまったが、同性愛の覗き魔にはならなかった。彼女は自尊心の強い女だった。(ここまでは普通の描写)
愛の悲劇は、さっさと大政奉還した徳川慶喜を見限らず、変わる時勢に背を向けて武士という名に自尊心をかけたことである。新撰組のような女である。
祈り。両手を組んでぬかずく儀式的な行為は、愛に、宗教的免罪符を与えてしまった。
これだけ祈っているのだから「そなたはけなげに努力している。美人ではないがかわいい女であるぞよ」という許しのロザリオを、儀式は愛に与えた。
神がかりに自己肯定するブスほど怖ろしいものはない」

あるいはこんな部分。

「神社で結ばれた京美と太田は、一組と七組という遠距離恋愛になった。
「太田君とは離れてしもたけど、かえってよかった。新鮮さが保てる。スパイスがわりに浮気してもいいかも」
京美は統子に言う(ここまでは普通の描写)。中学生がスパイスがわりの浮気などいかがなものかと顰蹙するのは死を控えた動物だけで、十代とは四六時中性欲があふれているホモサピエンスなのである。性欲という言い方におためごかしな花柄カバーをつけてほしいなら、「恋に恋する」とでもしておく」

果ては読者にマークシート式のテスト、しかもここに書くのもはばかられるセックスにまつわるテストまでさせたりもする。「言うたれ言うたれ、塔仁原(登場人物の名)!避妊もできない男のチンポなど腐った胡瓜だ。蛆虫チンポだ。がんばれ、塔仁原!」などと、登場人物をアジテートしたりもする。

もっとも全体がこんな調子なのではない。メインはあくまで男と女の話なのだが、そこここで作者が語りだしてしまい、そんなカオルコ的独断がツボにはまったとき、読者は声をあげて笑うしかない。

引用からも想像できるように、主人公の女は中学生の隼子、男は若い美術教師の河村である。

物語は隼子の小学生時代から語り出され、恋愛ものである以前にまず男の子と女の子の「学園もの」ドラマとして展開される。隼子は女の子5人グループのリーダーでもサブリーダーでもないが、単独行動をしがちで、他の女の子たちからは「生意気」と見られている。友達の家に遊びに行けば、大人から「早熟」と評される。

男子の噂に上る印象的な生徒ではないが、「半開きの唇」や「長く形のいい足」をもった隼子の存在に河村が教室で気づき、ついには恋人同士になるまでが、恋愛小説としてのこの物語の読ませどころだ。隼子が無意識に、また意識的に繰りだす媚態に若い河村が蜘蛛の糸にからまれるように魅入られていく過程が、いくつものシークエンスで周到に描かれる。

とはいっても、普通の恋愛ものがもつ雰囲気描写やエロティシズムからは遠い。読者が甘く快い気分にひたれるような文章は避けられ、教師が女生徒に狂っていく心理が、カオルコ的突っ込みを伴いながらせりふと行動で示される。夏休みには「話すのももどかしく、彼らはヤった。服を脱ぐのさえもどかしく、彼らは犯った。ヤって犯って」、以下「ヤって犯って」の文字が実に108回繰り返される。

二人は教師と生徒の関係なのだから、当然のこととして長くは続かない。その別れの場面は、日本海を望むビジネスホテルに設定される。

「壁の薄い、旧式のラジオが置かれたホテルだった。ただ、窓から海が見えた。
「いちおう海の見えるホテル」
自動販売機で買った、いちおう夜明けのコーヒーを飲んで隼子は言った。
(なぜもっとあとにめぐりあわなかったのだろう)
河村は言いかけて、やめた」

108回の「ヤって、犯って」の無機質な言葉の羅列の果てに、ビジネスホテルと自動販売機という道具立て、二度繰り返される「いちおう」が、カオルコ的な悲しみの表現なのである。

物語は最後に、20年後の現在が語られる。30代になった彼ら彼女らの結末については触れるのをよそう。けれども、ちゃんと思春期の読者も、50代のすれた男をも満足させるような「恋愛小説」に仕立てあげられている。ひとことで言えば、泣ける。

この本を読んだ後、10年前に書き出され、彼女が「私小説的」と呼ぶ「ドールハウス」「喪失記」「不倫」の3部作に目を通した。

「ツ、イ、ラ、ク」の「笑い」は既に「不倫」で姿を現しているが、彼女自身をがんじがらめにしたらしい青春期の自意識の糸をどのように解きほぐし、それを客観視して小説の技へと変換し、カオルコ式笑いを「発明」したかが手に取るように分かる(話題の綿矢りさちゃんも、持てあましている自意識を、いずれこんなふうにうまく小説の技に変換してほしい)。

だからこの「笑い」は言葉の技巧ではない。姫野カオルコの精神と肉体に発する技だからこそ笑えるし、同時に泣けもする。二人の主人公を取りまく男の子、女の子たち、清楚にして淫蕩な女教師など、脇役がしっかり書き込まれているのも魅力だ。(雄)

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