おどろきの中国【橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司】

おどろきの中国


書籍名 おどろきの中国
著者名 橋爪大三郎ほか
出版社 講談社現代新書(384p)
発刊日 2013.02.20
希望小売価格 945円
書評日 2013.05.12
おどろきの中国

橋爪大三郎は1948年生まれで、団塊の世代に属する。いわゆる全共闘世代で、この世代には本来なら優れた研究者になるはずの人間がその道に進まなかった例が(東大全共闘議長・山本義隆のように)少なくない。僕も同世代だから、そういう人間を周囲で何人も見ている。

そのせいかどうか、団塊の世代には母体となる人数が多いわりに個性的で優れた研究者が少ない印象がある。そのなかで橋爪大三郎は数少ない例外の一人、加藤典洋らとともに最新流行のフレームを輸入するのでなく自前でものを考えることを自分に課して仕事をしてきた一人だと思う。

以前、橋爪が大澤真幸と対談した『ふしぎなキリスト教』を読んだことがある。日本人にはわかりにくいキリスト教という一神教を、その源であるユダヤ教まで遡って読み解いた面白い本だった。『おどろきの中国』は、その二人に宮台真司を加え、三人の社会学者が一緒に中国を旅した経験も踏まえて中国について縦横無尽に語った鼎談。

大澤と宮台は橋爪より10歳前後若い。この本は彼ら2人が問題提起や質問役となり、『隣りのチャイナ』の著書もある橋爪がそれに答える形をとっている。ちなみに橋爪の奥さんは中国人で、だから中国には知り合いも多く、中国語はネイティブと間違えられるくらい堪能だという。

本書の帯に「そもそも『国家』なのか? あの国を動かす原理は何か?」とある。これは本の冒頭で宮台真司が問いかける疑問である。これに対して、橋爪はいくつかの論点を示してみせる。

まず中国というのは近代的な意味での国家ではなく、2000年以上前にできたEUのようなもの、中華連合と考えるべきだという。春秋戦国時代の戦乱を経て、互いに競争するローカル勢力のパワーバランスが崩れ秦という統一政権ができた。EUの背後にはキリスト教というバックボーンがあるけれど、中国では王朝によって儒教だったり法家だったり、あるいは仏教や道教だったり、統治イデオロギーをさまざまに取捨選択してきた。「先回りして言うなら、だからこそ、儒教を捨てて三民主義を採用したり、三民主義を捨ててマルクス主義を採用したり、マルクス主義を捨てて改革開放路線を採ったりできる。政治的統一が根本で、政策オプションは選択の対象、という順番は変わっていないでしょ? ここに中国の本質がある」(橋爪)。

中国ではどの王朝でも、安全保障の優先順位がきわめて高い。王朝(政府)が存在するのは安全保障のためと言ってもいいくらいだ。儒教にしろ法家にしろ、その選択は安全保障をどうするかという問いにどう答えるかの問題に他ならなかった。

中国の社会関係の核になっているのは「帮(ほう)」という集団だが、この血縁集団でも科挙の官僚機構でもない自発的組織が結ばれる動機もメンバー相互の安全保障だった。「中国共産党も、『帮』の一種だと考えられる。中国共産党や人民解放軍は、官僚機構である以前に、『帮』が、まず軍事力を手に入れる。そして、実力闘争によって政府を乗っ取り、官僚機構に転換していくという順序を踏んでいる。…四人組とか、上海閥とか、共産主義青年団のグループとか、行政機構のなかに、徒党ができる。これが大きな権力をふるうと、つぎにはつぶされてしまう、ということの繰り返し。…こうした現象も、中国特有です」(橋爪)。

近代になってからも、国民党も中国共産党も伝統中国の支配のあり方を忠実になぞっている、と橋爪は言う。ならば毛沢東は皇帝なのか、という大澤の問いに、橋爪はイエスでもありノーでもあると答えている。毛沢東は歴世の皇帝イメージを最大限に利用したという点ではイエスだが、歴世の皇帝が及ばない力を持つに至った。「(皇帝と決定的に違うのは)毛沢東の中国共産党は、伝統中国の官僚制に比べ、はるかに社会の末端にまで支配の根を下ろしているという点。…党組織の末端を村に伸ばし…都市にも『単位』という新しい共産党のユニットをつくった。…農民も、都市生活者も、生活手段を握る共産党に首根っこを押さえられている。この共産党の頂点に立つ毛沢東の権力は、伝統中国の皇帝が及びもつかない、絶大なものであると思います」(橋爪)。

橋爪は中国の社会組織の原則を、次のように整理してみせる。(1)自分は正しくて立派である。(2)しかし他人も自己主張している。(3)従って自己と他者が共存する枠組みが必要。「この枠組みは、しばしば順番です。誰がえらいか、一番から順番をふる。中国ではどんな組織でも、例えば副首相とか副所長がまあ五、六人いる例が多いんだけど、必ず(非公式に)順番がついている。これは争いを避けるためです」。しかしポストに対して常に人間の数のほうが多いので、必ず対立と矛盾が生まれる。中国は年功序列を重んずる日本と違って能力社会だから、誰を上位のポストに抜擢するか(言い換えれば誰を排除するか)を正当化する根拠が必要になる。

その排除の根拠となる「恐ろしいシステム」が、清朝の制度を踏襲した「個人档案(とうあん)」といわれる個人の人事記録だ。档案は本人ではなく上司が書くもので、本人は見ることも書くこともできない。上司も自分の档案を見ることができないから、すべての档案を見ることができるのは中国共産党のNo.1ただひとりということになる。「冷戦が終結したあと、ソ連や東欧の社会主義政権は総崩れになったけれど、中国はビクともしなかった。それは、単位制度や個人档案制度のように、党組織と人事システムがしっかり確立しているからだと思います」(橋爪)。

三人はこんな議論を重ねながら、さらに日中の歴史問題をどう考えたらいいか、中国はこれからどうなるのか、日本は中国とどうつきあったらいいのか、といったテーマに進んでゆく。ところで、中国共産党が国と国民をどのように統治しているのかというテーマをジャーナリスティックな側面から明らかにした、もう一冊の面白い本を相前後して読んだ。一昨年刊行されたリチャード・マグレガー『中国共産党 支配者たちの秘密の世界』(草思社、2300円+税)。マグレガーはイギリスの雑誌『フィナンシャル・タイムズ』の元北京支局長で、8年にわたって中国に滞在していた。

そんな著者ならではの観察が、いたるところに出てくる。例えば、党や政府の幹部、国有大企業を経営するトップのデスクには「赤い機械」と呼ばれる真っ赤な電話機が置かれている。これは普通の電話機ではなく、番号は4桁で、同じ暗号システムを持つ他の「赤い機械」としかつながらない。国全体で300台ほどしかない「赤い機械」を持つことは究極のステイタス・シンボルであり、出世の階段を登りつめたことを意味する。「『赤い機械』が鳴ったら、絶対に出なければなりません」「非常に便利なのですが、同時に危険でもあります」と機械の持ち主は言う。

橋爪が挙げた「個人档案」という人事ファイルを管理しているのは、共産党中央組織部と呼ばれる部署だとマグレガーは指摘している。党中央組織部は天安門広場近くにあるが、建物には何の看板もなく、電話番号も非公開。

「その部署が持つ人事権は、仮にワシントンにも同じような部門があると想像してみるとよい。その部署が持つ人事権は、アメリカの全閣僚をはじめ、各州知事と副知事、主要都市の市長、連邦政府の監督官庁、最高裁判所判事、『ニューヨーク・タイムズ』『ウォールストリート・ジャーナル』『ワシントン・ポスト』の編集長、各テレビ局のトップ、エールやハーバードなど主要大学の学長、ブルッキングズ研究所やヘリテージ財団などのシンクタンクの所長にまで及ぶ」「政府の要職を得るための選挙や公の試験もないため、要職をめぐる舞台裏での抗争が、中国では政治の本質になっている。そして、情報を集め人事権を握る組織部が、党システム全体の中枢となっている」。

ほかにも、改革開放政策以後、政治的規制は強めつつ経済的な規制はゆるめたため海外からの投資資金が入り、地方がいわば独立した企業体のようになって、富と腐敗の温床になったことが、たくさんの実例で語られている。

結論として、マグレガーは現在の中国をこう評している。「体制が用いるのは抑圧よりも誘惑である。国民を力で抑えるのではなく、味方に引き入れようとするのだ。それでもなお、恐怖が体制の維持に不可欠なものであることに変わりはなく、必要な場合にはためらいなく用いられる。…党は、表向きは傲慢で凶暴な顔を見せているが、その裏では、自らの合法性の乏しさと、国民による支持の脆弱さを十分に自覚しているのだ」

同じように橋爪大三郎も伝統的な「易姓革命」の思想について、こう述べている。「天が、政治の正しさの根源。でも天は、見えないし、観察もできないでしょう。現実問題として天は何かというと、人民の評判なんです。人民の評判を失うと政権は崩壊する、というふうに実際は機能してきた」。そうか。そう考えれば、中国政府がマスコミの統制に必死になり、ツイッターの反応に必要以上に神経質になっている理由もよく分かる。

そして、中国共産党の統治がともかくも「正当性」を持ちうるのは経済がうまくいっている限りである、ということで橋爪とマグレガーの見方は一致している。(雄)

プライバシー ポリシー

四柱推命など占術師団体の聖至会

Google
Web ブック・ナビ内 を検索