「豊かさ」の発想を引っくりかえす
書籍名 | 年収300万円時代を生き抜く経済学 |
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著者名 | 森永卓郎 |
出版社 | 光文社(208p) |
発刊日 | 2003.3.1 |
希望小売価格 | 1400円 |
書評日等 | - |
「改革なくして成長なし」という小泉首相の「改革」がなったとして、その後にやってくるのは、具体的にどのような社会なのか。かつての高度成長やバブルの夢の再来はあるのか。その答えを明らかにしようとしたのが、この本である。
ここに描かれた悲観的ともいえる答えが正しいのかどうか、僕にはわからない。いや、専門家にだって本当のところはわからないだろう。ただ、このような答えもありうること、そしてそれがリアリティーをもって僕たちに迫ってくることも確かだ。
森永は、いまのデフレ状況への小泉内閣の対応から説きおこしながら、こんな議論を展開している。
(1)小泉内閣は、景気を回復させようとはしていない、のではないか。いまのように、デフレを止めずに不良債権処理を進めれば、倒産や失業が増えていく一方だ。デフレはインフレより、はるかに怖い。
(2)デフレを止めようとしない小泉=竹中チームの政策には、なんらかの意図が隠されているのかもしれない。小泉「構造改革」の正体は、「金持ちをますます金持ちにする」ことにあるのではないか。
(3)そうだとすれば、そのプログラムは次のようになっている。まずITバブルを起こし、株高で利益をえて、成りあがるための「頭金」をつくる。これが90年代後半の状況。
(4)金融引き締めによるデフレを仕かけて資産価値を急落させ、借金で不動産を購入した企業を追い込む。破綻した企業は、ハゲタカファンドや「勝ち組」企業に安く買いたたかれる。新生銀行の例でわかるように、これは実際に起こったことだ。
(5)不良債権処理を強行して、放出された不動産を二束三文で買い占める。これが、いままさに起ころうとしている事態。
(6)デフレを終わらせて、キャピタルゲインを得る。安く買いたたいた土地の値段が上がれば、ハゲタカたちは莫大な利益をえる。2003年末から2004年春には、このような状況がくるだろう。
(7)一度たたき落とした旧来型の企業や一般市民が這いあがってこないように、弱肉強食社会へと転換する。医療費、保険料などの自己負担増。酒税、たばこ税などの増税。「勝ち組」企業が恩恵をこうむる減税。企業では雇用の契約社員・パート化、賃金体系の成果主義への転換が進む。
(8)その結果、想像を絶する所得格差が生じ、新たな階級社会が生まれる。年に1億円以上かせぐ1%の大金持ちと、年収300~400万円程度の一般サラリーマンと、年収100万円程度のパート労働者・フリーターとの三層構造の社会ができる。エリートと非エリートの所得格差は100倍以上になる(アメリカは1000倍、いまの日本は数倍程度)。
(9)年収300~400万円というのは世界的に見て標準的な労働者・サラリーマンの所得だから、いま平均700~800万円もらっている日本のサラリーマンは、大幅な減収と身分の不安定にさらされる。サラリーマンの9割は「負け組」に転落する。
一言でいえば、世界に稀な平等を実現した戦後の日本社会を、アメリカ型の社会につくりかえるというシナリオだ。いま、僕らは日本社会が行きづまっていることを身にしみて感じているから、グローバル・スタンダードとか市場原理といった言葉に、それなりの説得力を感じざるをえない。でもその実態は、こんな露骨な弱肉強食の社会なのだ、と森永はいう。
もっとも著者が言いたいのは、僕たちを待ち受けているのが絶望的な社会なのだということではない。今後、この国がアメリカ型の社会に向かうことは避けられない。でも、そうであるならば、これまで僕たちがとらわれてきた「豊かさ」の発想を引っくりかえしてみればいいじゃないか、と言うのだ。
(10)景気が回復しても、企業は以前のようには正社員を採用しない。能力主義、成果主義とは、特定のエリートだけが取り分を増やすということだ。だから「勝ち組」になろうとする幻想など捨てよう。
(11)第三世界では、1人当たりのGDPが1000ドルを超えると飢餓状態から脱出できると言われる。年収100万円は、その10倍に当たる。生活苦で自殺するような事態ではない。
(12)年収300~400万円は世界標準で、貧乏なんかじゃない。実際、いま年収300~400万の家庭で、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジはほぼ完備されており、8割がエアコンを、7割が車をもっている。これのどこが貧乏なんだ。
(13)それより、年間総労働時間が1942時間ということのほうが問題だ。これはアメリカとイギリスの中間に当たるが、日本人はドイツやフランスに比べると年間300~400時間も余計に働いている。
(14)お金はほどほどでいいから、もっとゆったり暮らしたいとは思わないか。人生を犠牲にして働くという発想を変えれば、いまの日本では「貧乏」でも、けっこうハッピーな生活が送れるのだ。生活のリストラは必要だが、カローラを軽自動車に乗りかえる程度ですむ。中国製の服を着て、アジアの野菜を食べ、オーストラリアの牛肉を食べていれば、生活費はそんなにかからない。
(15)豪邸に住んだり、高級車を乗りまわしたり、高級料亭で食事したりするより、気の置けない仲間とわいわい騒ぎながら安酒を飲んで安い食事をするほうが、ずっと楽しいんじゃないか。つまり日本人は、ラテン化すればいいのだ。
もちろん、もっと精密な議論がされているけれど、骨組だけを抜き出せば、こんなことになる。それぞれの論点に、賛否さまざまな議論はあるだろう。
例えば小泉=竹中チームは、本当に森永の言うように意図的にこのような政策を採っているのか。出来事の裏に悪意を読む「陰謀史観」で解釈すれば、政治や経済もエンタテインメント小説を読むように面白く語れるものだが、ここにその匂いがないかどうか。
とはいえ、この本がもつリアリティーは、グローバル・スタンダードや市場原理、能力主義や成果主義といった、いまこの国で幅をきかせている言葉の背後にどんな現実が待ちうけているのかを、年収という身も蓋もない数字であからさまに示してみせた、という一点にかかっている。
自分は年収300万で、いや100万で、どうやって暮らしていけるのか、身につまされるものね。僕ら団塊の世代にとっても、企業からのリタイアは目前にせまっているから他人事ではない。
本の後半部分、発想の転換については、半分は賛成だけれども、半分は留保したい気分だ。「勝ち組」幻想を捨てること、「ラテン化」することに異論はない。ただ、貧富の差が激しい19世紀的な裸の資本主義への回帰が21世紀の現実だとしても、その流れを前提に「発想の転換」で生き延びようとするのではなく、流れそのものに抵抗するチャンスはまだあるのだと思いたい。
同じ「構造改革」でも、この社会を弱肉強食社会へとではなく、もっと別のモデルへつくりかえる可能性。ゼロサム、あるいは穏やかな成長のもとで、環境や「南」の諸国にひどい負荷をかけなくとも、なんとか僕たちが食っていけるシステムの可能性。
そんなシステムをめざすなかでこそ、僕たちは自然に「スロー」になり、「ラテン化」していくのではないか。そんなことを考えるためにも、たくさんのヒントをくれた本だった。(雄)
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