書籍名 | 日本習合論 |
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著者名 | 内田 樹 |
出版社 | ミシマ社(296p) |
発刊日 | 2020.09.19 |
希望小売価格 | 1,980円 |
書評日 | 2020.12.18 |
「習合」という言葉を日常的に使う人はそう居ないだろう。私も「神仏習合」という熟語が頭の片隅にあるというぐらいなもの。タイトルを見て、どんな内容なのかと訝りながら本を開いた。著者の内田は「習合」と言う言葉を宗教の教義の折衷という意味に限定せず、異文化との混合、ハイブリッド、折り合いといったより広い意味で捉えて、「習合」をキーワードに多様な切り口から日本文化を語っている。
日本は地政学的には辺境国家で「異文化の習合」から得られた成功体験を生存戦略として選択してきたことを考えると、日本の雑種文化というのは必然と言っていい。加藤周一の「日本文化を世界に冠たる純粋種の文化と言いたてるのは英仏の純粋文化に対する劣等感のあらわれ」と言う言葉を紹介しながら、内田は「雑種文化で上等」という前向きの雑種文化論から出発して、神仏習合を語り、農業・教育・労働・日本の民主主義へと話を展開している。
内田は自称少数派であるが、少数派であることに悩んでいるわけではない。少数派だと不安になる人が居るが、内田の言葉を借りれば「孤立する力が足りない」とバッサリ切り捨てている。考えてみれば、異文化の人々とは会ってすぐに理解と共感が生まれることはまず無い。一人一人は所詮少数派だから、意見が異なるにしても少なくとも敵対していないことを相互確認する力が最低限必要ということだろう。そのように、「理解と共感」の上に人間関係を築くことは重要だが、過剰な価値を置くべきでないというのが内田の生き方である。
言葉を変えれば「習合」とは「異物との共生」であり、「習合的な集まり」とは一つの仕事をすることが第一で、そこには親密も共感も求めないという特性が彼にとっては心地よい集団という事の様だ。社会集団が寛容で効率的であるためにこうした「習合的」なあり方は良く出来たシステムであるとしている。
日本列島の住民は古代から異動と共生で上手くやって来た。その例として黒沢の「七人の侍」のストーリーを挙げているのも世代感としては良く判る。こうした雑種文化は他言語との混合を楽しむ文化としても根付いて来た。旧制高校の学生たちが造語した「バックシャン」は英語とドイツ語の、「ゲルピン」はドイツ語と英語の合成語だ。加えて母国語と外来語の合成としては団塊の世代が思い出すのは「内ゲバ」や「ドタキャン」などと枚挙にいとまはない。また、国歌の君が代も古今和歌集の詠み人知らずの長寿祝歌にイギリス人の軍楽隊教官のジョン・フェントンが旋律を付け、ドイツ人音楽家のフランツ・エッケメルトが手を入れているという「習合」の極め付きといえる。
本書の大きなテーマの一つが「神仏習合」である。「神仏習合」とは六世紀の仏教伝来とともに神仏の共生が始まり、神社の中に寺院が、寺院の中に神社が有るといった形が1300年続いて来たことをいう。しかし、慶応4年の神仏分離令によってこの共生は途絶して「神仏分離」が行われる。神宮寺の中では僧侶と神官が一緒に活動していたが、それが否定された。神仏習合の時代は、寺院と神社を統括する職分は別当と呼ばれた僧侶が任ぜられていたが、政令でこの別当職を廃し、神社の神官たちを政府の神祇官の所属にすることを命じた。この結果、神社で御経を唱える社僧たちは、還俗帰農するか、神官に職替するか迫られた。
ただ、政府は「分離」は決めたが「廃仏」を決めたわけではない。しかし、旧水戸藩を始めとして、鹿児島、宮崎、土佐、松本など国学が盛んだった地域では廃仏の運動が盛んだった。加えて、民俗信仰への抑圧は続き、京都五山の送り火、盂蘭盆会、盆踊りなどが禁止された。しかし、この間、組織的な抵抗を示したのは浄土真宗だけで、民衆の抵抗も見られなかった。これは何故かとの答えを内田は、人々は「天皇神」が他の土俗神に対して、その優位性の確認を求めたものと受け取ったと見ている。戦後は神社の国家管理がなくなったこともあり、いずれまた日本では「神仏習合」が行われるといっているのだが、我が身を振り返ると初詣、酉の市等では神社に参り、菩提寺の代々の墓参りにも行く。生活の中では「神仏習合」そのものである。
内田のもう一つの大きな指摘は日本における民主主義の定着の歴史である。帝国憲法下で「天皇神」という認識が人々にあったにも関わらず、福沢諭吉が明治5年に書いた「学問のすすめ」の中で「日本国中の人民に生まれながら、その身に向きたる位などと申すはまずなき姿にて・・・」と語られていることを取り上げて、デモクラシーの萌芽としている。その後、自由民権運動が盛んになるとともに、美濃部達吉の「天皇機関説」は学界では定説になっていた。しかし、軍が天皇の直轄機関として突出し権限を集約していく中でエリートに支えられていた大正デモクラシーは命脈を断たれたという。
こうした戦時中の20年間を経て、終戦から戦後の転換点としての日本国憲法の制定自体の問題点に関する疑義を紹介している。それは、日本国憲法制定の前文として昭和天皇の「上諭」が存在している。そこには「朕は日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が定まるに至ったことを深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た、帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」というもの。
終戦時枢密顧問官だったあの美濃部達吉はこの件について、次の様な疑義を述べたと言う。ポツダム宣言受諾時点で無効になっている帝国憲法に基づいて第七十三条の改憲規定では改憲出来ないこと、新憲法の趣旨に合わない為に廃止させられる枢密院が新憲法の当否を論じるのは不合理であること、「日本国民が制定する」民主的憲法が勅命により天皇の裁可で公布されるのは虚構である、というものだった。敗戦時の混乱のなかで苦肉の天皇「上諭」だったのだろうが、法学者美濃部としては認めがたい論理だったのだろう。
明治の「神仏分離」と戦中・戦後の憲法改正などを通して、天皇制との多様な折り合いの中で日本人は生きてきたことが良く判る。それだけに、後付けで歴史と文化を語る限界もあるという事だろう。特に、戦中から戦後への連続性を語っている人間(架橋)として吉本隆明、江藤淳、伊丹十三の三人を挙げているのが面白い。
戦前・戦中・戦後の時代を生きてきた人達にこそ体験感覚を聞きたいところである。個人的に言えば、私の父は大正9年生まれ、平成21年に逝去した、まさに戦前・戦中・戦後を生きてきた人間だ。昭和17年に大学を卒業し就職、18年に召集、終戦とともにポツダム中尉で退役、職場復帰している。父は生きてきた時代について語る事はほとんどなかった。否定も、肯定・言い訳も聞いたことは無い。ただ「学生時代の友は三割が戦死した。死んでいった彼らの為にも、しっかりと生きなければならない」と言っていたことを思い出す。そこには理屈ではなく、生き方として信念の発露だったのだろう。息子の私には「判断や考え方」に口を出すことは無く、「やるんなら、死んだつもりでやれ」という一言だった。その自由さが父にとっての大切なことだったのだろうと今更ながらに思い返される。本書の全ての論に賛同する訳ではないが、幅広い議論の中で納得と、反論の混じり合う読書であった。父に読ませて感想を聞きたいと思った。(内池正名)
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