書籍名 | ヌシ: 神か妖怪か |
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著者名 | 伊藤龍平 |
出版社 | 笠間書院(270p) |
発刊日 | 2021.08.12 |
希望小売価格 | 1,760円 |
書評日 | 2021.10.17 |
「ヌシ」と聞くと、なにやら沼などに棲む大きな怪物的な生き物を思い起こす。そして、「あの女子社員は職場のヌシ」などと身近な言葉として使っているのだが、面と向かって「ヌシとは何か」と質問されると曖昧に「ヌシ(主)」と言う言葉を使っている自分に気付くことになる。一方、民俗学の事典類でもヌシについて項目を立てて説明しているものは皆無に近いとか、「水の神」「龍」「河童」など個別の文献や、地域毎のヌシ伝承に関する文献はあるものの、日本の「ヌシ」伝承を総括的に取り上げたものはないという。それだけに、ありそうでなかった「ヌシ」全体を俯瞰した初めての一冊という著者の言葉にも気持ちが入っている。
ヌシの定義として、特定の場所で長く生息・君臨し、巨大化して強力な霊力を持っているものとしている。ヌシとなるのは年を経た蛇や魚・亀などの水棲生物、龍や河童・狒々などの伝承生物などが多いのだが、時として人の姿に変貌したヌシもいれば、鐘などの器物に由来したヌシもいる。なかなか広範な存在である。
そして、ヌシの棲む場所が人の生活圏と重なる時に緊張が生まれる。ヌシの多くは水域をそのテリトリーにしているし、人もまた生きて行くためには水が必要不可欠であり無縁でいることは難しい。われわれの先祖はヌシとつかず離れずの日々を過ごしてきたのだろう。
ヌシという存在は日本特有のものであり、世界的には一つの場所に棲み続ける巨大生物や水の神などの伝承は有るものの、それらを「ヌシ」として総括する概念や言葉はないという。従って、本書では地域名が明らかになっている日本各地の民俗伝承を中心に分析しており、巻末の全国に及ぶ都道府県別ヌシ索引を見ればそのヌシ伝承の豊富さに驚かされる。それだけに、著者は読者に対して、全国各地にいるヌシを身近に感じてほしいという期待を強く語っている。
ヌシを考えるテーマの一つとして「自然と人の共生」のヒントが伝承の中にあると著者はいう。人とヌシとは常に平和的な関係を保っていたわけではない。時としてヌシと戦い、ヌシとの対立を事前に避け、ヌシの尋常でない能力に耐えるなどの生活をしてきた。それは、温暖化が進み自然現象の変化と風水害などの被害を目の当たりにすることが多くなっていることを考えると、「ヌシ=自然の象徴」という見方にも合点がいく。
ヌシ伝説を理解するもう一つのテーマが領地占領・征服を正当化するためのものという考え方だ。大和朝廷に恭順せず征伐の対象になった古代の豪族たちは「土蜘蛛」と呼ばれており、時代が下るにつけてその言葉から妖怪化していったともいわれている。一方、時代が下ると実在の人物が伝承の主人公になることで歴史としての意味も出て来る。8世紀に坂上田村麻呂が木曽に棲んでいた大蛇を追い武蔵国で退治し、征夷大将軍として蝦夷征伐を行うが、征伐とは言い方を変えれば侵略である。それを正当化するためのオオタキマル(大滝丸)という鬼を成敗するという話が作られたが、その鬼は征服された豪族の暗喩である。ここでもヌシは土着の人々であることを指摘している。
人々がヌシとどう付き合ってきたかという視点も面白い。人はヌシと色々な係わり方をしてきているのだが、その中でも、ヌシと約束を交わすと言う関係の伝承は考えさせられる点が多い。群馬県利根郡の伝承では、川の観音様を毎日掃除していた男がある日、釣りをしていると滝つぼから乙姫が現れて毎日の掃除のお礼として、お膳やお椀が足りない時が有ったらその個数を紙に書いておいておけば岩の上に置いておくと言ってくれた。以後、男は自分の必要な時や村人に頼まれた時に御膳やお椀を都合してきた。ただ、ある村人が一つ返すべきお椀を忘れてしまったことがあった。そうするとそれ以降お膳やお椀は貸してもらえなくなったという。この伝承のポイントはヌシとの契約・約束を結んだのも、それを破ったのも共同体(村)の一個人、その一個人の振る舞いが共同体全体に影響を及ぼす。自分の為だけでなく、仲間の為にも約束は守れという日本人の集団行動の基礎的レッスンのようである。
一方、ヌシが人に対してとる多様な行動の中に「人をさらう」といった行動がある。ヌシが見染めた娘との異種婚姻譚として多く見られるが、ヌシは例外なく面食いなので若くてかわいい娘がその対象であるとともに、結婚してヌシの世界に入った娘が不幸になったという伝承は無いようだ。ただ、多くは結婚前にヌシの正体がバレて破談になったりしている。
山形県置賜の伝承では、手打沼のヌシ(大蛇)に見染められ、親の反対にも関わらず嫁ぐことになった娘が、父親の前に水中から美しい花嫁衣裳を着て現れた。娘はにっこり笑い花婿(ヌシ)に手を取られて、再び水底に消えて行った。その時父親は「沼の中にもきっと竜宮城があるだべ・・・そうに違いねえ」と娘を思いやる気持ちを呟く。娘が選んだ運命の相手がたまたま人間でなかったという状況でも、娘を思いやる親心は変わらないとい切なさを表している。こんな伝承を読むと、昨今世情を騒がせている結婚話等が思い出されてしまうのだが。ヌシ同志の付き合い方や人がヌシになる伝承等、興味深い話が多数紹介されている。
本書の締めくくりとして現代のヌシについて語られている。その一つが未確認動物として我々の前に表れているヌシ達である。釧路湖のクッシーや「釣りキチ三平」の巨大魚タキタロウを始めとして、特に1970年代にその名をあげたのがツチノコである。伝承としての「山の神 ツチノコ」は1972年田辺聖子の小説で世間の注目を浴び、ヌシから未確認動物に変わり、今や各地で捕獲懸賞金がついている状態である。
また、戦後の特撮映画にも多くのヌシが登場している。まずは、水爆実験の結果、太古の恐竜が目覚め人間社会に鉄槌を下すというゴジラがその代表である。またテレビのウルトラQにも、トンネル工事で目覚めたゴメスや火星から来た「ナメゴン」などいとまがない。これらは全て、科学技術の進展に伴う、人間の振る舞いに対する警鐘として捉えられている。また、宮崎駿監督の映画、戦国時代を舞台とした「もののけ姫」や昭和20年代を描いた「となりのととろ」で語られている自然や里山と人間の関係の中にヌシを描いていることに著者は注目している。
それにしても、われわれは何と多くのヌシに囲まれて生きてきたのかと痛感する。ヌシ伝承は自然が人間より優位である状況や拮抗している時に生まれる。そう考えると、自然を破壊し消費してきた現代はヌシが生き辛くなってしまった時代ということか。
われわれが大いなる自然に向き合ったとき、ヌシは良き隣人として現れるに違いないと著者は言う。ヌシは我々の心の中に居る。私は遠野市観光協会発行の「カッパ捕獲許可証」を保持している。今朝、机の引き出しから引っ張り出して確認してみたら許可期間がとっくに過ぎていて効力を失っていた。これでは、河童に出逢っても捕獲は出来ないので、飯でも一緒に食べて「また会おう」と言って別れるしかない。そんな事を考えるヒントをもらった読書だった。( 内池正名)
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