永山則夫 封印された鑑定記録【堀川恵子】

永山則夫 封印された鑑定記録


書籍名 永山則夫 封印された鑑定記録
著者名 堀川恵子
出版社 岩波書店(354p)
発刊日 2013.02.27
希望小売価格 2,205円
書評日 2013.07.17
永山則夫 封印された鑑定記録

永山則夫が1968年に北海道から京都まで放浪して拳銃で4人を殺した「連続射殺魔事件」は、50歳以下の世代にはほとんど記憶されていないだろう。死刑制度に関心のある人なら、死刑の「永山基準」として名前を聞いたことはあるかもしれないが、事件の詳細までは知らないにちがいない。

僕を含めそれ以上の世代にとっても、この事件は貧困のなかで育ち、学校教育もろくに受けなかった永山が貧しさゆえの「無知」から金欲しさに引き起こしたもの、と世に流布された解釈に従って記憶の片隅に片付けてしまっている。発生から45年、永山の死刑執行から15年、この連続射殺魔事件が別の角度から光を当てられた。「家族」の物語としてである。

1973年、東京地方裁判所で開かれた第一審で、ひとりの精神科医によって永山の精神鑑定が行われた。その医師、石川義博は8か月に渡り永山と向き合って生い立ちから事件に至るまでの話を聞き、それは49本、100時間以上のテープに録音された。石川鑑定の結論は、事件当時の永山は「精神病に近い精神状態」というものだったが、裁判官はこの鑑定を「重大な疑問がある」として退け永山に死刑を言い渡した。

一方、精神を病む姉を持つ永山も、この鑑定に過敏に反応して自尊心を傷つけられた。裁判官と被告双方から疎まれた石川鑑定は、その結果として以後誰からも省みられることなく葬られることになった。石川医師は以後、裁判の精神鑑定から手を引いて臨床医師としての道を歩むことになる。

フリーのドキュメンタリー・ディレクターでありノンフィクション作家でもある著者の堀川は、永山が遺した日記からテープの存在を知った。堀川は石川医師に接触してテープの存在を確かめたが、石川はそれを表に出すことを拒んだ。著者が石川医師からテープを託されたのはそれから2年半後。永山が事件にいたるいきさつを率直に語ったその100時間以上のテープを基に、本書は書かれている。

永山が語る北海道・網走での幼少期の記憶には、父も母もいっさい出てこない。リンゴ栽培の技師だった父は博打にのめりこんで家に寄りつかず、母は生活のためリンゴの行商に明け暮れていた。永山は8人兄弟の7番目。他に長男が産ませた幼児も預かって家族は10人だった。永山に母の記憶がないように、石川医師が永山の母に話を聞いたとき、彼女は幼い則夫についてなにひとつ思い出せなかった。

永山が唯一家族の愛を記憶しているのは、長女セツにおぶわれて一緒に網走の海を眺め、遊んだことしかない。母に代わって弟妹の世話をしていたセツは女学校を首席で卒業し大学進学を夢見たが、堕胎し婚約を破棄されたことなどから精神を病み、則夫が4歳になる前に精神病院に入院してしまう。

長女の入院で途方に暮れた母は、年長の次女と1歳の4女、長男の子供(孫)だけを連れて青森県板柳の実家に帰ってしまう。13歳の三女と次男、三男、4歳の則夫の4人の子供たちは、母に捨てられることになった。彼らは独力で厳しい網走の冬を越すことになるが、則夫にこのときの記憶はまったくない。石川医師は、永山にとって母に捨てられたことは「抑圧された記憶」なのだろうと考えている。同様に母に捨てられた兄や姉たちにも、幼い則夫の姿はまったく記憶されていない。

「この四人の“グループ”は、その後もいびつな形で関係しあい、後に生活の場所を東京に移してからも再び、深い因縁を持つことになる。末弟の則夫が上京し、そして事件へと繋がる転落の道を転がり落ちる時、この兄たちの存在が随所に現れることになるのである」と著者は記す。

捨てられた4人の子供たちは翌年、母の実家に合流するが、貧しさは変わらなかった。この家に暴君として君臨していたのが次男だった。則夫は毎日のように殴られた。「理由もないのに…ボコボコに殴られて、血を流して…血、流さない時は、いつも気絶してたよ…ほとんど毎日…口ごたえなんか出来ない…部屋の隅で、いつも俺ひとり縮まって」(永山)。母もまた、泣いている則夫を殴った。「家族の中の一人が集中的に苛められ孤立することによって、他の家族が平穏な関係を保っているかのような空気が漂う。子どもは親の態度に敏感だ。永山を疎んじる母の気配は、他の子どもたちにも伝わっていただろう」(堀川)。

暴力に対する則夫の反応は、「逃げる」ことだった。兄のリンチに会うと外へ飛び出し、何十回と家出を繰り返す。則夫が家出するたびに迎えに行くことで仕事が出来なくなった母親は、次男に暴力を止めるよう注意する。以後、次男のリンチは止まった。「永山は『家出した俺の勝利だ』と思った。“逃避行”は、やられっぱなしの少年の心に、物事を解決する有効な手段として刻まれた」(堀川)。

則夫は学校へほとんど行っていないから、家族以外の他人とどう社会的関係を結んだらいいかを学んでいない。家族の中の人間関係がすべてだった。そのなかで則夫は臆病ないじめられっ子で、黙って耐え忍び、我慢できなくなると逃げだすという反応が身にしみついた。この頃から表に出る被害妄想や自殺衝動と併せて、東京へ出てからも変わらない永山の行動パターンとなる。

集団就職で東京へ出た永山は、渋谷のフルーツパーラーで働くことになる。友人こそできないものの、永山の働きぶりは目を見張らせるものだった。ところが、上司の何気ないひとことに過敏に反応し、青森でのちょっとした悪事がばれたと思いこんだ永山は、誰にも何も言わず、荷物も持たないまま寮を飛び出してしまう。

北関東に住んでいた長男や、青森で苛められた次男を頼って居候し、そこも居づらくなると家を飛び出す。「ここから永山は、大阪、池袋、羽田空港、浅草などと渡り歩き、職を転々としていく。最初は必死に働くものの、辞めるきっかけはいつも同じ。人間関係を作れず孤立して、何をされても被害的に受け止めてしまい、果ては身ひとつで逃げ出すというパターンを繰り返す」(堀江)。

ホームレス状態になっていた永山は、憂さ晴らしに忍び込んだ米軍横須賀基地の兵士宅で小型の拳銃を発見しこれを盗む。「なんか、自分が欲しいものに行き当たったというか…今までずっと苛められてきたでしょう、だから、これ持ってたら強いんだっていう」(永山)。

最初の犯行の日。朝から都内をぶらぶらしていた永山は東京プリンスホテルの敷地に侵入し寝場所を探そうとしていた。そこで警備員にとがめられ、「逃げようとして…後ろから掴まえられて」咄嗟に引き金を引く。第二の犯行も似たようなものだ。深夜、京都の八坂神社で寝場所を探していたところ懐中電灯を持った男にとがめられる。「交番、行こう」と手を捕まれそうになり、逃げたい一心で目をつぶって引き金を引いた。

第一と第二の事件は、「逃げようとして発砲した、脅えた少年」の犯行だったが、第三と第四の犯行について、永山は石川医師に「函館と名古屋は違う」とある種計画的であることをほのめかしている。

2人の人間を殺した永山は自殺するしかないと思い詰め、次男のアパートを訪ねて犯行を告白する。彼は「網走で死にたい」と言うが、次男は「どうせ死ぬなら熱海でいいじゃないか」と突き放す。

永山は函館に行き、そこでタクシー運転手を殺害する。「兄貴にね、『網走で死ぬ』って言ってきたでしょう。兄貴に対する当てつけみたいな、俺は北海道に来たんだっていうね、北海道で殺したのは、その決意みたいなのがあったんだよね。兄貴に何か証明していくっていう…憎しみ、大分、あったよ」

第4の犯行現場は名古屋だったが、そこには則夫と接触を断ってまっとうな人生を生きてきた三男が住んでいた。「迷惑をかけることで兄に当てつけたい」からこそ選んだ場所なのだが、永山は警察の調べでも公判でも、そのことを一切語らなかった。

「永山が怨んだ相手とは『兄たち』である。…彼が抱いた憎悪の矛先は、決して世間や社会、大人たち、貧困といった、曖昧で抽象的なものには向けられていない。後に大きく取り上げられることになるそれらの要素は、彼が獄中で学び獲得した知識により総括し、後付けしたものにすぎない。この時、この場所で、19歳の少年が胸に抱え憎悪の炎を燃えあがらせていたもの、それは『家族』でしかなかった。その家族とは、遠くには自分を捨てた母であり、直接には、東京で求めては裏切られた兄たちである」

こんなふうに永山が犯行に至るまでのいきさつに家族という側面から光を当てると、「貧困からの犯行」という永山自身も跡付けした通説とは別のものが見えてくる。家族という密室のなかでの歪んだ関係、社会的人間関係の未熟、孤立と妄想、自殺衝動といったキーワードからは、むしろ「大阪・池田小無差別殺傷事件」や「秋葉原無差別殺傷事件」といった今日的な犯罪との共通性すら感じさせる。であれば、永山事件はまだ終わっていない。斉藤美奈子が「並みのミステリーより面白い」と評したように、スリリングな読み物としても一級品だ。(雄)

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