二階屋の売春婦-末永史劇画集【末永史】

二階屋の売春婦-末永史劇画集


書籍名 二階屋の売春婦-末永史劇画集
著者名 末永史
出版社 ワイズ出版(272p)
発刊日 2007.6.5
希望小売価格 1800円+税
書評日等 -
二階屋の売春婦-末永史劇画集

忘れていた、あるいは忘れたがっていたどす黒い感情の塊をいきなり目の前につきつけられた。「二階屋の売春婦ー末永史(すえなが・あや)劇画集」は、そんなふうに読み手の心をかき乱す。いささかの懐かしさと、いささかの嫌悪感をともないながら、発表から30年以上たった今もすっくと立ちつくす、未熟ながら現在形の表現に思わず引き込まれた。

ここに収められた21編の劇画の半分以上は1971年から73年の間に、マンガ雑誌「ヤングコミック」に掲載された。上村一夫の表紙、かわぐちかいじや石井隆が連載をもっていたこの雑誌は、当時の劇画ブームのなかで「漫画アクション」などの主流とは違う、ちょっといかがわしい雰囲気をもつマイナーな劇画誌だった。

僕も「ヤンコミ」をよく買っていたから、収められている作品のいくつかを読んだ記憶がある。作者が女性ということで、「ポルノ劇画を描く女性マンガ家」みたいな騒がれ方をごく一部でされたのも覚えている。

狭いアパートや夜の酒場で繰り返される、男と女のお話。別れ話とセックス。「いつから棄てたの」「夜明けを抱いた」「二階屋の売春婦」「バラ色の闇の外」とタイトルを並べただけで、内容のおおよその見当はつくだろう。

「劇画タッチ」といっても、拙さがめだつ太めの線。人間の身体や顔の表情もぎこちない。ヌーベルバーグに影響されたらしい、コマとコマの間の大胆な省略。「あの人を殺せば……あたしも死ねる覚悟ができる……と思ってしまった」といった、おもわせぶりなセリフや独白。つげ義春みたいに、影で黒く塗りつぶされた風景。

巻末に収められた現在のインタビューで、作者は「恥ずかしい」「消したいです(笑)」「若気の暴走」と照れているけれど、ここには「70年代」と呼ばれ、良くも悪くも今なお関心をもたれる時代の空気と匂いが見事なまでに冷凍保存されている。

たとえば一世代上のつげ義春が同時期に貸本漫画の匂いを残しつつ描いた傑作群の完成度と余裕に比べれば、中身も技術も未熟で直裁ではあるけれど、それだけに当時の若い世代が抱え込んでいた鬱屈や閉塞感がストレートに表現されている。

そして人の身体や表情を描く線が目立ってうまくなり、語り口もこなれてきた73年、末永史は突然に筆を折ってしまう。彼女が次に作品を発表するのはそれから6年後の79年。以後、87年までに描かれた5編が本書の後半に収められている。

作品を発表しなかった6年間に、作者は結婚し、子を産んだらしい。最後の5編の主人公はいずれも小学生くらいの子供をもつ主婦で、夫はごく普通のサラリーマン。誰にもある日常のなかで、どの主婦(どの夫)も経験する家族のなかの小さいけれど消えることのない空白が描かれている。いっそう細くなった描線は繊細で、70年代前半の作品に比べれば完成度は格段に高い。

なかでも、夫に内緒で夜のアルバイトをしている主婦が、出張と言って家を出た夫と深夜の新宿ですれ違う「えっせんす おぶ らいふ」の最後の6ページは素晴らしい。

ラブホテルのベッドで裸になった主人公に、「あたし……本業は主婦ですが」と独白がかぶさる。次のコマは深夜の雨の街。傘をさした主人公とずぶ濡れの夫がすれ違う。主人公の「あ」という声。妻に気づかず去ってゆく夫の背を振り返りながら「おとーさん?」とつぶやいて闇に立ちつくす主人公の、1ページまるまる使ったカット。

最後のページは朝のベランダ。洗濯物を干しながら、主人公が独白する。「あの夜の ことを これ以上 考えるのは 止そう」「おとーさんだって あんな静かな 顔をしているではないか」。最後のコマで、洗濯物のハンカチが風に吹かれて宙を舞い、眼下の街を見下ろしながらひらひら漂う。最後のセリフは、再び主人公の、「あ」という声。

作者が70年代前半に抱え込んでいたものが、時代も環境も生き方も変わったけれど、核の部分はしっかり保持され、それが柔らかな線とさりげない日常のセリフと巧みなストーリーテリングで表現されている。こういうのをやっぱり成熟っていうんだろうね。ほかに「家庭の主婦的恋愛」「ボロフスキーの一日」など、どれも切なく面白い。

残念なことにこれらの作品が発表された1987年以後、作者はエッセイストとして活躍しているものの、漫画作品の発表はない。

作者が70年代前半に一貫してこだわり、80年代の「主婦」の時代に静かに見つめていたものが、それから20年以上たち「熟年」と呼ばれる年齢に近づいているらしい今、どうなっているのか。

あの得体の知れない塊は消えてしまったのか、積み重なる年齢と折り合いがついたのか、今も奥深いところで火傷しそうなほど熱い榾火がたぎっているのか。そんな末永史の新作を読んでみたいと思うのは僕だけではないはずだ。(雄)

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