にょにょにょっ記【穂村 弘/フジモト マサル】

にょにょにょっ記


書籍名 にょにょにょっ記
著者名 穂村 弘/フジモト マサル
出版社 文藝春秋(224p)
発刊日 2015.09.07
希望小売価格 1,620円
書評日 2015.10.18
にょにょにょっ記

著者の穂村弘は1962年生まれの歌人。1990年のデビュー当時は「ニューウェーブ短歌」の先駆けとして名を馳せた。本来、限られた字数を舞台とする文学ジャンルの表現者なのだが、本書のような字数制約のない表現形態でも独特の世界観を創り上げている。「別冊文藝春秋」に掲載されていた日記形式で書かれたエッセイを単行本化したもので、シリーズ3作目となる。シリーズ1作目が「によっ記」。「日記」と「ニョッキ」を掛けた言葉遊びなのだろうが、2作目が「によによっ記」、従って3作目の本書が「によによによっ記」という奇怪なタイトルになっている。しかし、4作目は「によっ記4(によっきし)」とかにしないと長くなりすぎて困るだろうと余計な心配をしてしまう。

さて、本書は日常的な事柄の疑問や不思議をテーマとして、その視点は評者からすると「なるほど感」や「もっとも感」に包まれたものだ。まあ、周波数が合うとでもいう事なのだろう。世代の違う人達の会話に出てくる言葉への驚き、古い書物や子供の頃のテキストに表れる不思議な表現、街で配られるフリーペーパーから店の看板にいたるまでその興味が広がっている。そうしたものに素直に反応する著者の「気づき力」とでも言うべき感性の鋭さは歌人たる穂村の力量だろう。

同時に、文芸春秋社による本書の売り込み文句には「妄想」と「詩想」という言葉が使われているように、その文章表現は自由詩のようなリズムを持ち、理屈や論理の積み上げでなく言葉によってその面白さを表現する力も感じられる。この「気づき力」と「表現力」を両輪として、ユーモアを超えて読者の心に響くのは、まさに「詩想」ということかと思う。ただ、さすがはニューウェーブ短歌の先駆者だけに、気付き力の発揮の方向感はなかなかマニアックな領域におよんでいるのも事実だ。少し引用してみる。

10月7日 裏
  鏡で舌の裏をみる。
うっ、となる。
  何か、気持ち悪い。
  濡れた配線みたいなのがごちゃごちゃ。
  これで合っているんだろうか。
  判断できない。
  正しい舌の裏というものがわからないから。

 2月7日  笑い声
  エスカレーターに乗る。
  すぐ後ろで笑い声がした。
  「にゃはは」 
  それからこんな言葉が聞こえてきた。
  「デブみたいな声で笑っちゃった」
  強烈に振り向いてみたかったけど我慢した。

なかなか、シュールだ。たしかに「デブみたいな笑いの主」をみてみたいのは山々だ。「舌の裏の正確な血管の配置」についても気にはなる。こうした、本書の世界観を構成しているもうひとつの要素がフジモト・マサルの描いている表紙と挿絵である。彼の絵もなかなかインパクトのあるもので、主人公を模した「マングースかカワウソ(だと思うのだが・・・)」が、穂村の文章を補完したり、強力なコンビネーションを発揮してさらなるパワーアップを達成しているようだ。

「音楽室の謎」と題されたものは、学園もののテレビ・ドラマで音楽室のシーン。モーツアルトの髪型が羊っぽい肖像画が掛かっているのを見て、懐かしいと思いつつ、ふとどうして音楽室だけなのかと考えている。理科室にキューリー夫人やアインシュタインの肖像画はない。絵を描く美術室にピカソや岡本太郎の肖像画はない。家庭科室に小林カツ代や平野レミの肖像画はない。何故音楽室にだけ肖像画があるのか。穂村は不思議に思う。この話を評者の家人にしたところ、「えへっへっ」と面白がったものの、「でもさ、肖像画は校長室にもあるよ」と切り返された。面白がる要素も人さまざまであることを痛感。

この様に、日常空間において面白いと思うポイントは、そこに息づいているすべての世代や人達に受け入れられるものではないだろう。ユーモアや笑いの回路は過去の生活体験などが根底にあり、若者の笑いのスイッチと60才台のそのスイッチは明らかに違っている。ただ、穂村は、女性誌、家庭誌など幅広く活躍の場を広げているし、絵本の翻訳などに加えて、日本経済新聞などもその場となっている。マルチな表現力があるからこそ「別冊文芸春秋」というメディアの読者層に合わせた表現を可能にしているという事なのかもしれない。歌人としての貌だけではなく、エッセイストとして掲載メディアの読者層に応じた内容を多彩に使い分けているとすると、その才能を評価する一方、下手をするとメディアから便利屋として使われてしまうリスクもそこにはありそうに思われるほど、多才な表現者だと思う。

心に残る言葉や絶妙の言い回しなど、人生振り返ってみればいろいろな状況で思い出されるものが多い。本書を読みながら、ふと、萩原朔太郎の「虚妄の正義」(1929年)で「どこから読んでも良い。ただ、詩的香気だけで満足して読み終えるな」と朔太郎が序言で書いていたことを思い出す。本書もまた、どこから読んでも良いのだが、穂村弘は凡人には想像できない様な視点で新しい文学を創造して提供することに熱中しているように思える。論理は納得、言葉は感動といった各々の力を発揮してほしいものだ。

また、言葉遊びは誰でもその成長の過程で多かれ少なかれのめり込んだことがあるに違いない。そしてその面白さを感じとる力は「若い人ほど鋭い」だろう。年をとると「常識」が数多く記憶され、「尾ひれ、羽ひれ」に思いを寄せるエネルギーが無くなってくる。本書は「妄想」をトリガーとしても、同時に穂村のちょっとした「詩想」を楽しむ時間として本書の読書の価値は大きそうだ。(内池正名)

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