日本人は何故シュートを打たないのか【湯浅健二】

日本人は何故シュートを打たないのか


書籍名 日本人は何故シュートを打たないのか
著者名 湯浅健二
出版社 アスキー(224p)
発刊日 2007.7.10
希望小売価格 760円(税込み)
書評日等 -
日本人は何故シュートを打たないのか

私は熱狂的なサッカー・ファンではないが、サッカーの国際試合がある度に日本チームの決定力不足という声を長いあいだ聞いてきたように思う。そもそも決定力とは何なのかは曖昧さを残しながら。そんな中でタイトルが気になって手にした一冊である。

著者の湯浅健二は湘南高校・武蔵工大でサッカーをやり、卒業後ドイツに留学。ケルン国立体育大学でドイツサッカー協会のプロサッカーコーチライセンスを取得。帰国後、東京ヴェルディーでコーチに就任といった経歴を持つ。

本書のタイトルが魅力的な理由は、サッカーの基本的な構図である「心理ゲーム」という側面を巧みに表現しているからだろう。それだけに、サッカー好きにも、サッカーに特別な知識を持たない人にも読書欲がかき立たせられるところが本書のミソ。

構成は、ドイツのプロリーグやJ-リーグでの経験とともにサッカーを学問として学んだことをベースに、サッカーにおける原理・原則をわかり易くかつ知的に書いていることと、加えて、多くのプロフェショナルとの会話が紹介されていることにある。例えば、浦和レッズの前監督であるギドブッフヴァルト、ベルリン在住のライプツィヒ大学の哲学教授の小林俊明、ドイツで一緒にプレイした仲間など。こうしたコーチや選手、監督、一流の見識を持っているファンなどとの会話を紹介することによって、サッカーを語りながらサッカーを超えた想像力を広げていくという、刺激に満ちた内容である。サッカーとは「心理ゲーム」である、という考えを推し進めていくと必然的に、サッカー論はある種の「文化論」として語られ始める。

「・・日本ではミスを共同責任として捉えることが多かったし、個人の責任を深く追及するようなことも少なかった。それに対してドイツでは、ボール絡みのプレーだけでなく、ボールがないところでの攻守にわたる目立たないチームプレーに対しても、厳格にその功罪を追及する。その背景にはサッカーのメカニズムに対する深い理解だけではなく、個人主義が徹底し、責任の所在を明確にするという生活文化もあるに違いない。」

こうした、湯浅のドイツでの経験は個人と集団の間合いというか、立位置の議論はチームプレーの典型的な側面であるが、もう少し別の見方では「日本的」という特徴をプレーの中に見て取る見解が出てくる。たとえば、小林俊明の言葉はより先鋭的である。

「・・・日本のサッカーでは、プレー中の選手達が責任を転嫁したり、回避したりする傾向が強いように見える。・・・政治学者の丸山真男が戦時中の日本を振り返って「無限責任=無責任」という表現を使ったが、日本のサッカーを観ていると、まさにそれに当てはまると思った。自分の責任をずらしていく、ずらされた責任を次の人にずらす。そして、結局は誰も責任を取らない。・・・」

サッカー論で丸山真男が出て来てしまったのにもいささか驚く。サッカーにおいて究極の責任が問われる局面を考えるとシュートの瞬間であるのは疑いない。シュートすることこそが攻撃の目的であるのだから、結果がどのようになろうともシュートにチャレンジするのが選手全員の義務である。しかし、そもそも不確実なサッカーのプレーの中でシュートこそもっとも不確実かつリスキーなプレーであるという現実に選手はさらされている。その局面での行動原理や判断基準は日本人にとってあまり訓練されていない資質や技術を要求されている、という小林の見方。加えて、シュートを打つための条件として、チーム・プレーと個人技の高い技術とその柔軟な切り替え能力とともに、プレーヤー一人ひとりの強い心が問われているという見方がある。2002年ドイツ代表監督のルディ・フェラの言葉は、そうした不確実なシュートを打ち、ゴールを決めるということの実体を次のように表現している。

「チャンスをつくりだすことと、実際にゴールを決めることは別物である。・・・・それは技術や戦術能力だけでなく、体感ベースの自信、確信といった心理的な要素の結晶である。」

以上のような、プレーヤーの面から見たサッカーの面白さとともに監督やコーチに焦点を当てたサッカーもなかなか興味深い。著者は監督・コーチに要求される資質として幾つかの特性が上げている。曰く、優れたパーソナリティ、深い知識、実践力・応用力などを含むインテリジェンス(理知)、付和雷同しない決断力と実行力、責任感あふれる批判力、論理的な表現力、誠実さ、自分の言動に対する深い確信・・等など。確かに、こうした資質は有ったに越したことはないのだが、監督という言葉をリーダーと置き換えてみて、会社の社長にしても、政治家にしても、これだけのことが要求されて合格点を得られる人が何人いるのかと疑問に思う。

現実的には、リーダーたるものは努力すべき理想を明確に理解しておくべきであるというメッセージなのだろう。そう理解しないと社長業の端くれをやっているわが身の置く場所もない。そんなコーチ論・監督論の展開の中で気に入った言葉を見つけた。1952年の西ドイツ代表監督のゼップ・ヘルベルガーは、チームの最も理想的なバランス状態をこう表現したという。

「ゲームが終わったとき、選手たちが笑いながら、力を出し切ってぶっ倒れるような雰囲気を作り出せるのが理想のコーチだ・・・・」

不確実性に富んだ心理ゲームたるサッカーは、ビジネス・セクターに置き換えて語られることも多い。

「守備意識の高揚をベースとした選手間の相互信頼・・・、リスクチャレンジ溢れる魅力的な攻撃を志向・・・。そして、その絶対的な基盤が、主体的に考えて決断する力であり、勇気と責任感に支えられた行動力である。」

こうした考え方は組織のあり方として、また個人の位置づけとして理想であり、それを実現させるためにリーダーとして努力するに値する形である。(正)

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