書籍名 | 脳にはバグがひそんでる |
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著者名 | ディーン・ブオノマーノ |
出版社 | 河出書房新社(416p) |
発刊日 | 2021.04.03 |
希望小売価格 | 1,375円 |
書評日 | 2021.12.18 |
『脳にはバグがひそんでる』というタイトルに惹かれた。以前にも『脳には妙なクセがある』『脳はなにげに不公平』(いずれも池谷裕二著)など、脳に関する本を何冊か手にしている。いずれも素人向けに平易に解説した読み物だ。本書は、これら二冊と比べれば明らかに専門的だけれど、日常の出来事や実験エピソードなどを交えて、門外漢にも取っつきやすい構成になっている。
誰でも一度は、「もしかしたら脳は完全ではないのではないか?」と疑問に思ったことがあるのではないだろうか。身近なところでは、いわゆる「ど忘れ」などもそうだし、慣れ親しんだ商店街で、ある一軒が突然更地になってしまったとき、以前どんな店舗だったかどうしても思い出せなかったり、室内で日用品の置き場所を変更すると、しばらくの間は元の場所に取りに行ってしまったりと、すぐにいくつかのケースを思いつく。
こうした個人的なことなら笑い話で済まされるが、バグのせいで様々なことが引き起こされるとなるとそうもいかない。広告やプロパガンダに踊らされ、さまざまなバイアスに引きずられ、およそ合理的とは言い難い判断を下す。いわれない恐れを抱いたり、超自然的なものを信じたり、いりもしない品物を買ったりする。証人や原告の記憶違いで無実の人を有罪にしたり、薬品の名前を取り違えて医療過誤を起こす。はては、とんでもない政治家をリーダーに選んだりしてしまう。
「人間の脳は私たちの知っている宇宙の中で最も複雑な装置だが、それはまた、不完全な装置でもある」と、著者はいう。「脳は感覚器官を通して外界からデータを獲得し、それを分析・貯蔵・処理し、私たちの生存と繁殖の機会を最適化する出力(つまり動作や行動)を生み出すように設計されている。だが、ほかのどんな計算装置とも同じで、脳にもバグがつきものだ」
脳のバグは、様々な状況で大きな影響を及ぼしているが、その理由を説明するのは容易ではない。ただ、際立った原因を二つ挙げることはできる。一つは、「神経系のオペレーティング・システム、つまり脳の構築の仕方を定めた太古の遺伝的青写真」だ。この青写真のおかげで私たちの誰もが、呼吸や体と脳の間の情報の流れの制御といった基礎レベルの課題をこなす脳幹を持っているが、時代の進化とともに多くのバグを生み出す原因ともなっている。
二つ目の原因は、「脳の記憶の構造」だ。脳は情報をニューロン同士のつながりのパターンよって貯蔵する。そのため、脳内のものはすべて、思考も感情も行動も互いにつながり影響を与えていて、これが多くのバグの要因となっている。
ここでは、そうしたバグについて、いくつかのエピソードを取り上げながら見ていこう。
今すぐに100ドル受け取るか、1カ月後に120ドル受け取るかの二つの選択肢が与えられると、多くの人がすぐに100ドルを受け取る方を選ぶはずだという。本来なら、一カ月後に120ドル受け取るほうが合理的だが、「太古の遺伝的青写真」に従えば、先の見通しが立ちにくい先祖の時代では、目の前の満足感を優先(短期的利益)する方が合理的ということになってしまうのだ。
例えば、サッカーのオフサイドの判定について取り上げている。研究結果によると、オフサイドの判定は最大で25%が間違って下されるという。審判は、パスが出される瞬間の、前線の両チームの二人の動く選手の相対的な位置を判断しなければならない。パスを出す選手と二人の選手はたいてい離れた位置にいるので審判は視線を移さなければならない。人が視線を移すには100ミリ秒かかることと、二つの出来事が同時に起こった場合、人は自分が注視していた出来事が先に起こったと判断しがちだという。今ではビデオ判定があるからいいようなものの、25%の誤審というのは驚きだ。
本書では、バグの一つとして「恐れ」について考察している。もちろん、「恐れ」自体はバグではない。動物が捕食者や有毒な動物や敵など、命を脅かす危険に対して、確実に先回りして反応できるように進化が与えたのが「恐れ」だからだ。ただし、恐れる対象はそれだけではないのが厄介だ。その一つが「よそ者恐怖症」だ。人類は生まれつき「よそ者」を恐れるように準備されているのだという。世界では、今もって人種的、宗教的などの理由で争いがあとを絶たない。いくら理性的に「争いはやめよう」と声を上げても、それが脳のバグの一つで、容易には解消しないのだとしたらなんだかやりきれない思いだ。
人はマーケティングの影響を受けやすいという。本書では、史上最も効果的なマーケティング・キャンペーンの一つに、結婚の際にダイヤの婚約指輪を贈る習慣を挙げている。20世紀の初め、ダイヤの売上が急速に減っていたとき、ダイヤ市場を掌握していたデビアスという企業が、1938年、広告代理店に依頼したキャンペーンだ。映画スターやハリウッド映画とタイアップして、ダイヤと愛の結びつきを大衆の普遍的な心に焼き付け、若い男女にダイヤの婚約指輪を主役とみなすように仕向けたのだ。「ダイヤモンドは永遠の輝き」というコピーとともに。
広告のキャンペーンは、社会の構造さえ変えてしまうことがある。20世紀初めのタバコのキャンペーンと20世紀末のボトル入り飲料水のキャンペーンも、成功例の一つだ。タバコの場合は、実用的な機能も恩恵もほとんどなく、むしろ健康に致命的な影響のある商品を、まんまと売りつけることに成功した。飲料水については、ただ同然に手に入る商品に、お金を払うように仕向けたのだ。
広告キャンペーンに似たものとして、政治キャンペーンがある。ヒトラーの例を挙げるまでもなく、通常の選挙でも、初めのエピソードでも述べた即座の見返り(耳障りの良い公約)につられて、人はろくでもない候補者を選んでしまったりする。
本書はコロナパンデミック前に書かれたものなので、コロナとは直接関連がない。それでも、我が国ではともかく、欧米でワクチン反対運動が広がる光景を不思議に思っていた。21世紀初頭の10年間は、自閉症はワクチンが原因で引き起こされるという考えが一般的に信じられていたという。1998年に発表された科学論文が発端だ。その後、データの捏造が判明し、論文は撤回された。それでも、初めのインパクトの方が強く、脳内で「自閉症」と「ワクチン」の間に強い結びつきができてしまった。もともと、体内に異物を取り入れることに抵抗があることもあって、欧米ではワクチン接種反対運動は根強く残っているようだ。
こう見てくると、脳のバグは、私たちの生活のすべての面に影響を及ぼしているが、脳に依存しているとなると、社会はそう簡単には変わらないのだなあ、と暗澹たる気持ちになる。けれども、例えばサッカーの誤審は多少なりとも解消されたではないか。他の分野でもおいおい解消すると思えば一抹の救いになる。
脳は、削除機能を持っていないので、一朝一夕にバグを解消することはできない。だからこそ、私たちは「自分の脳のバグと、そのバグがどう利用されているかに気づき、それを理解するようにならなくてはいけない。そうすれば日常的に下す判断だけでなく、最終的には自分の人生やまわりの世界を形作る見解や政治的選択も最適化できるのだ」。本書を読むことで、多少その理解が進むかもしれない。(野口健二)
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